争いは「正義」にあります。

まじめに物事を考えてしまうタイプの人や、白黒はっきりさせたい傾向の人、知識欲が高い人などは、どうしても自分の正しさの証明をしようとむきになるところがあります。
人間関係においても、そういったタイプの人は、何かトラブルが起こった場合、たいていどちらが正しいかの争いになっていることがほとんどです。
結局は自分が間違っていないことを何かで得ることで、安心します。
たとえば、
議論や言い合いによって相手を言いくるめ、自分が正しいとする行為。
他人に判断を仰いで、どちらがか正しいかを求める行為。
書物や新たな知識・情報を得ようとして、正しさを証明する行為。
無理矢理自分で自分が正しいのだと「自分に」納得させる行為。
形式的に相手に謝り、相手よりへりくだるように見せて、「自分は相手より大人だ」として自分を当該争点とは別の意味で人として正しいとしてしまう行為。
人ではなく、神や宇宙・天などという大きな概念を持ち出して、自分も相手も正誤判断からはずしてしまうことにより、結果的に自分が間違っていないことにしてしまう行為。
ほかにもいろいろとありますが、いずれにしても結局のところ、自分の正しさを証(あか)して自分が壊れることを防ぐということではどれも一致します。
私はこれが悪いと言っているのではありません。むしろこうなるのが普通であり、それをしないと今の自分としては特に心が安定しないので、ある意味自分を守るための自動的防衛策と言えるのです。
ただ、改めてこうやって自分の正当証明の行為を見てみると、なかなか滑稽ですらあります。大切なのは、正しさ証明のあとでもいいので、客観的になる機会を持つということです。
正しいことを示すということは、それだけ分析力や証明力があるということでもあり、正義感や客観性ともつながっています。
ということは争いから起こる正しさ証明でも、そのこと自体(正しさを求める心)は自分の特性であるとも考えられますし、それだけの才能が与えられているとも言えます。
一度相手との正しさでの争いとなれば、徹底的に自分の正しさを示す思考・理論・見方を作り上げればよいことも出てくるのです。
別に口論や言い争いを勧めているのではありません。
ここで言いたいのは、あなたが弁護士や検察官のように、ある争点となっている事について、必死で自分や持論の正しさを証明するという努力をすれば、思いもしなかった新しいアイデアや考え方が生まれるというその可能性を述べているのです。
タロット的に象徴としていうと、「剣」で切り分けるところまで切って行けば、もうそれ以上切り分けられない何かが生まれ(あるいは「見え」)、そこに真理に近いような輝きが現れるということです。
言い換えれば、自分のために剣をふるうのではなく、物事の真理の理解のために剣をふるっていくということです。
最初は自分の正しさ証明のためであっても、それを「真剣」にやっていると、ある時、正しさの証明ではなく新しい考えが出てくる楽しさに気づくというものでしょうか。
でもそれは相手のとの争いというネガティブなものから始まっているのです。
ネガティブなものをネガティブなままで終わらせるのもありでしょうが、どうせならポジティブなものも見たいです。
それは自分の正しさにこだわる証明の仕方から、自分を超え、あるいは離れて正しさそのものの証明の方法を取っていくということになるでしょう。
逆説的ですが、それも「正義」にこだわることから始まるのです。

コメント

  1. いつも宮岡さんの至高の深さにはうならされますが、今日の視点も素晴らしいですね!
    よく自分の正義を押し付けるなと、そこで終わってしまいますが、もっともっと考えを深めて、
    >新しいアイデアや考え方が生まれるという可能性
    が生まれるってなろほど!と思いました!!
    >自分のために剣をふるうのではなく、物事の真理の理解のために剣をふるっていくということ
    >ネガティブなものから始まっている
    ほんとにそうだと思いました。
    ネガティブなものから始まるが、ポジティブに転換できたとき、感動が生まれるのかなとも思いました。

  2. >ロック大好き☆ことだま師×絵本セラピスト みなこ@愛知一宮さん
    そうなんですね、何事も実はネガとポジがあって、悪いと思っていてもすばらしいことが隠されているという視点に立つと、世界の色々なことが面白いモノに見えてきます。まあ、この記事も実体験に基づく、自分の正しさを証明しようとするかっこ悪い(^_^;)姿から出てきたものです。

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