行為と本当の目的

昨日、久しぶりに釣りに行きました。


船で沖まで出ましたので、昼の強烈な日光で日焼けしてしまい、鼻が赤いです。(笑)


魚はまあまあ釣れたのですが、どうも昔ほどうれしくないというか、釣り自体に情熱をかける気持ちが少なくなってきたように感じています。


それで自分で「なぜなのだろう?」と考えてみました。


するとどうやら私は「釣りそのものを楽しみにしていたわけではない」とわかってきました。


いや、昔は確かに釣り自体を喜びとする気持ちもあったと思います。


しかしながら今は、日常とは異なる空間や雰囲気、釣り友との語らいや共有する時間に楽しみと喜びを見出していたことに気づいたのです。


ですから魚が釣れてもあまりうれしくなかったのです。言ってみれば釣果のよしあしは、ほとんど関係なくなっていたのですね。


長々と私と釣りの話をしていますが、これには意図があります。


実はほかの皆さんも、これと似たようなことを行ったり感じたりしているのです。


それは自分のしていること、好きなものなどが、実はそれ自体には(では)ないという驚くべき事実です。


たとえば、占いを学びたいと勉強していても、果たしてあなたは占いが本当に好きなのかどうかということであり、占い師になりたいわけではないこともあるでしょう。


本当は「学んでいる私自身が好き」「知的好奇心を満たしたいだけ」「学びの友との時間が気に入っている」「真理の探究が本当の目的」などということかもしれないのです。


また私の釣りの例でもわかるように、最初はやっていること自体に興味や関心・目的があったとしても、徐々に気持ちが変わっていくことがあります。


それは別に構わないことですが、ここでのポイントは、「目的と行為が=(イコール)でなくなってきた場合は、その行為自体に代わるものもある」ということであり、「何が何でもその行為でしか目的をかなえることができない」とは思わないことです。


そして以前熱中していたことが、今はそれほどでもないということならば、自分の熱意・若さが失われたということよりも、心の変化が当たり前であることを思い、むしろ成長や拡大がなされて、より客観視できるようになったと考えてもよいでしょう。


「熱中」はその場に入り込むこと、つまり我を忘れることで出てきますから、我を忘れない冷静さがあれば、自然、熱中は起こらないといってもいいでしょう。(もろちん熱中することが必ずしも悪いわけではありませんが)


皆さんも、本当は何を求めてその行為をしているのかを考察すれば、人生に効率をもたらすことができるかもしれませんので、一度確認してみてください。

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