自分劇の奇跡
この時期(秋)になりますと、いろいろと思い出すことがあります。
秋に物思いにふける・・・えっと・・・実は結構私はロマンチックな傾向があるもので、、(苦笑)
それで大学時代、民俗学をやってまして、大学のゼミの人たちとともに滋賀県のある村に調査に行ったことを思い出します。いわゆるフィールドワークというやつです。
今の時期というより確かもっと遅い晩秋だったと記憶しているのですが、まあ秋の雰囲気が来ると感覚的に思い出すこともあるのです。
この調査に参加したゼミの仲間たちとは実は学校を離れても、ほとんど普段の遊び仲間みたいなものでもあり、サークル活動仲間みたいなところもある強固なメンバーでしたので、民俗学の調査と言っても、半ばグループ旅行みたいなところもあったのですね。
さて調査の日、大学に集合して車を数台にわけ、指導教授の乗る車を先頭に、一斉に山奥の村に向かうわれわれでした。大昔の知る人ぞ知る「水曜スペシャル、川口探検隊」の気分です。(笑)
右手に琵琶湖を眺めながら、やがて車は左方向の山あいに入り、さらに奥へと進みます。次第に道らしき道もなくなっていき、「この先、どうなるんだ・・・」と心配気味になっていたところで現地に到着しました。
見るとそこは数件の家々が段々畑のところどころに位置しているような、のんびりとした村でした。でもきちんと神社や能舞台すらあります。歴史ある村だということは一目でわかりました。
あとで教授が「こんなに調査のしやすい村は見たことがない」というくらい村人もいい人たちばかりで、古老の方々をはじめ、皆さんからいろいろとお話を聞くことができました。その中には不思議な伝説もありましたよ。
で、われわれゼミ仲間たちですが、面白いことに、同じ調査をするのでも個性が出るのですね。
いきなり村人たちに気さくに話しかけ、自己紹介して積極的に自分から問いを発していく人。
話を聞いているうちに、話に登場する実際の場所を見たくなったのか、村人に案内を乞うて行動を始める人。
まずは村そのものを知らねばと、人に話を聞く前に、村のあちこちを回って迷子になりかける人。(笑)
「オレはあんまり興味ないから・・・」といわんばかりに、一匹狼よろしく皆の輪からはずれつつも、村人から問いかけられるとうれしそうに話をする、今で言う「ツンデレ系」の人。
まさに観光気分そのもので、調査などそっちのけではしゃぐ人。
反対に、まじめに文献やノートを見ながら、いかにも民俗学の調査らしく話を記録する人。
途中で輪から離れ、何かほかの成果をあげるためか、家庭訪問して独自の調査を開始する人。
私はどれだったかというと、皆様のご想像にお任せします。(笑)
ま、なにより、私はこのように自分たちも含めて全体を観察するのは好きでした。(^_^;)
それで当時私は、このようなゼミ仲間の様々な調査態度に、好意的に感じる人もいましたし、お遊び気分でやっているようなメンバーには反感を抱くこともありました。
いわば、いい悪いの評価を下していたのです。
でも今となれば、その評価の基準は何だったのかといいますと、結局は自分がいいと思う内容や行為・態度であったわけです。
それに合う人はよい人、合わない人は悪い人みたいに決めていたということになります。
今ならわかるのですが、みんなあの調査では必要な人たちでした。
観光気分の人がいたからこそ、私はこのことをはっきりと今でも思い出すことができますし、実際「観光的な楽しい調査」と記憶として感じています。
また迷子になった人のおかげで、村全体がわかり、村人たちとも広く交流することが結果的にできました。
もちろんまじめに調査もしたので、あとの学習や卒論にも結びつくことになりました。
何が言いたいのかと言いますと、どの局面でも大局的な視点で見ると、誰もがどんな人にもふさわしい役割を人生劇場で演じており、それはそれぞれの劇場において必要な役柄になっているということです。
誰一人欠けていても、その劇は劇として成立しないのです。
面白いことに、舞台と役柄はその場面においては同じなのに、役者それぞれには違う劇に見えているということですね。劇の意味するところもそれぞれで異なります。
またさらに、私たちは観客席側の人間にもなることができるということです。
今、あの調査を思い出すと、本当に秋の日の美しく不思議な思い出として蘇ります。それは全員が必要だったということに気がついた時、奇跡のようにも感じます。
そうすると、当時は反感を抱いてた人や事柄に対しても感謝の心や涙すら出てきます。ありがたいですよねぇ。。。これが神の配在なのかもしれません。
このようにして皆さんも時間の経過とともに思い出し確認してみると、自分の人生劇場が奇跡の連続であることに気がつくことができるかもしれません。
読んでて涙が出そうでした(´_`。)
ほんとにそうかもしれませんね。
若い時には気付かないこと。
たくさんあり過ぎです。
そしてまた、今もそうなのかも・・・。
>terimuさん
コメントありがとうございます。
そうですね、時間というものは時に残酷でもありますが、こうしてクッションを置いて客観的になれることで癒しや天使であるとも言えますね。思い出が輝くのは年を取ったからなのか、理解が多方面に進んだからなのか・・・その両方かもしれません。