欲求や願望を叶えようとしてみる。

世の中、人間の欲望や欲求を刺激することにあふれています。

言ってみれば、それが商売の種、原理ともなっているので、四六時中、私たちは興奮(を起こすため)の波にさらされているようなことになっています。

これを避けるには、まずは物理的に自分を刺激の波から遠ざけておく(隔離しておく)必要があります。

刺激はどこから来るかと言えば、テレビや新聞雑誌などの広告、今はインターネットからも大きいでしょう。もちろん街中を歩けば、広告や看板の山ですし、電車など乗り物の中でもしかりです。

やっかいなのは、人を介しても持ち込まれるということです。

その仲介者自身に自覚がないため、やっかいなのです。

SNSなどでは、実はそれ(知らず知らず、広告の片棒をかついでいる)になっている人も多いものです。

ということは、なるべく外界や人との接触を避け、引きこもっていれば、かなりは逃れられるということです。

もしかすると、最近の引きこもり者の増加は、ひとつには、こうした無意識の自己防衛の形が出ているのかもしれません。

しかし、人は社会的な生き物であることを忘れてはなりません。

引きこもっていると独善的になります。

それはそうでしょう。自分しか世界にはいないみたいな状態になってくるわけですから。

また、考えることが「自分だけ」となりますから、「私はどう生きればいいのだろう?」「オレってそもそも何者?」というような、「私」「自分」の存在意義(宇宙とか世界とか大きな意味での)にこだわるようになり、それが悩みにもなって、結局答えの出ない袋小路のような迷路に彷徨うことになります。

それは一見哲学風な悩みではありますが、実(現実)よりも理想を追求することになるので、どんどん現実離れしてきます。(これが悪いわけではなく、いいところももちろんあります)

そこで、マルセイユタロットでは「悪魔」と「神の家」の関係が意味を持ってきます。

つまり現実の状態からただ自分を隔離して逃げるのではなく、欲望や欲求への刺激を受けていることを自覚し、それらをエネルギーに変えて、これまでの自分枠からの脱却を図るという方法です。

それには、一時的に欲求・願望を叶えるため、忠実に動いてみるという方策があります。

法律を犯したり、犯罪になったりすることは論外ですが、なるべく自分の欲求を叶えるよう気持ちのままに動いてみるということです。

それによって、結果がどのようなものになるのか、叶える過程において内外の状況はどう変化したか、これらを事後検証します。

結局、結構な形で、欲望に忠実になると、心身にダメージがあることがわかります。

物質的にはお金というエネルギーが消費されますし、メンタル的には一時的に満たされる感覚はあっても、次なる飢餓感、もっと大きな欲求に広がっていくことを実感します。

人間関係的にも、あまりよくならないでしょう。ただし素直に伝えたり、表現したりすることで、両者の真の理解を生むこともあります。

まあ、やってみればわかること、動いてみて気付くこともあるということです。

そうして、欲求の充足によって、自分の器とか、求めている本当のものについて知ることになるのです。

そこから、自分の欲求が起こる根本を浄化したり、変容させたりして、次の段階に移ることができます。(ここでまた新たな欲求も起きるでしょう)

この過程がマルセイユタロットの「悪魔」と「神の家」で象徴されます。

欲求の中には、自分への不足感(完全性への疑い、隔離の不安)があり、それをほかで補おうというる行為になりますが、誰でもそれ(不足・欠乏感)はありますので、ある意味、必要なものと言えます。

大切なのは、何を欲求によって求めているかを見つけることです。

人に対してだと、その人に何を求めているのか、モノだと、そのモノを手にして何を得ようとしているのかです。

逆に言えば、自分に欠けていると思っているものが欲求で出るということになります。

ところが、本来はそれ(欠けているもの)が自分にあるというのが真理だと言われていますから、自分の中にあることを自分の欲求から気付いていくための仕組みだとも言えるでしょう。

またたとえ全員が完全であり、すべて備えていたとしても、その現実的表現は様々な形になっており、皆個性を持っています。

「ああいう方法や形もあるのか」と、自分にあるものを出す表現というものを、欲求は知らしめてくれます。

つまり、完全ではあるけれど、表現的には未熟だったり、知らなかったりすることを、人それぞれの欲求とその解消で、より「完全な世界」として整えてくれるよう、存在するシステムだと考えることができます。

ですから、味わう、欲求を叶えるということも、悪いわけではないのです。

欲求を叶えるために社会に生きる時、孤独から解放され、引きこもりにならずに済みます。

ただし、ストレートに欲求がすぐ解消できるような社会になっていないのも、それはご愛敬であり、またゲームとしての楽しい世界なのです。

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