「二極化」という言葉と自分の立ち位置

以前から言われていますが、ここ最近でも、「二極化」という言葉をよく聞かれるのではないでしょうか。

現実的なフィールドにおいては、勝ち組・負け組持てるもの・持たざるもの、貧富の差みたいな経済的な基準での二極化と言われることもあります。

一方で、スピリチュアルの分野においても二極化というたとえが出てくるようです。

それも簡単に言ってしまえば、新しい知性・感性をもった人になるか、従来の価値観のままでいる人かのような分け方で言われることが多い気がします。

スピリチュアル的には、確かにそういうところもあるのかもしれません。

ただ、こうした言い方の中に、すごく傲慢な、選民思想的なものを感じてしまう部分もあります。

自戒を込めて言っていますが、二極化という言い方・見方によって、いつのまにか私たちは、知らず知らずに、自分を、「私は気づいている方」「わかっている方」「進化している方」とし、同時に、「まだまだわかっていない人たち」「停滞・退化している人たち」がいると明確に区別する二元化、いや差別化を自分の中で生み出しているともいえます。

前にも書きましたが、スピリチュアルに傾く心理の中には、自己評価と自己尊厳の問題が隠されていることがあり、現実フィールドと自分(らしさ)の表現の狭間に悩み、逃避的に、自分は別の世界では認められる存在で、選ばれるべき人間であるというような錯覚を生じさせ、自らを異世界に飛ばす人がいます。

平和や調和を尊ぶ(訴える)にしても、シビアな現実や自分にとっての都合の悪いところは切り離し、結局、自分さえ良ければよい、助かればよいという考えになっていることもあるわけです。

仮に、いい方向と悪い方向、または進化の方向と退化・停滞の方向性があったとして、そのどちらかに人が二極化しているという状況があるにしても、進化の方向に合致しない人は放置してよいのか、切り捨ててよいのかという問題があるのではないでしょうか。

いや、すべては自己選択の問題であり、進化の方向に行かない人というのは、自ら好んで選んでいるわけで自業自得なのだという人もいるかもしれません。

神や宇宙は愛と慈悲のエネルギーと言いながら、冷酷に基準に満たない者、気づきがない者はうち捨てられるものなのでしょうか。それも人間レベルではわからない、大きな意味での宇宙・神の愛という人もいます。

いろいろな考え方はあるでしょう。どれ(どの選択)も自由で個性であるというのなら、本当に何でもありの世界です。

ならば、自分としてはどうしたいのか、どうありたいのか、これもまた自由な選択と言えますが、逆に、そこをはっきりさせていく必要もあるという気がします。

私自身でいえば、二極化のどちらかに傾いたり、行ってしまったりするのではなく、なんとか両者(極)の中立性や架け橋であろうとしたいです。

無理にそうしたいというより、自然とそうなっていく傾向があり、不思議なもので、こればかりは何か魂のデータのようなものがあるのかもしれません。

従って、実は、自分の立場とか傾向とか、役割というのも、やはり魂か何かに刻まれている可能性があるように思います。どれがよいとか悪いとかではなく、やはり自分に適したもの(役割・表現)があるのだと感じます。

架け橋であろうという態度は、例えば、もし、たとえ進化から切り離される存在の人達がいるとしても、本当にその状態が好きで、何らかの全体性の役割でもって演じている人もいる一方で、知識や情報の不足、誤謬、手段の間違い、センサーの鈍化などで、本来の自分とは異なる状態にされているとすれば、その状態からの脱出に、手を差し伸べることができないだろうか考え、行動するものです。

「気づかないのなら仕方ないよね、私たちはすでに知っているから先に行くね」というのではなく、先に進めない人、残された人は、本当のことが知らされていない、騙されている、意固地になっている、マイナスやネガティブな気持ちで自分を縛っている、そうそう簡単に浄化や平和な気持ちになれないなど・・・様々な現実性との葛藤があるこしを考慮し、コツコツとながらも、先に行く人たちの道に追いつける方法を一緒に考えたい、実行していきたいという気持ちなのです。

こう書くと、上から目線のような、傲慢でおこがましく、何様なんだ、という感じになってしまいますが、決してそういうつもりではないのです。

自分も含めて、一般人の悲哀と言いますか、一見、幸せや喜びの多い人間それぞれの人生であっても、全体から見ればまだまだ苦境にあると言え、多くの不幸も現実に見聞きする中で、自分一人が幸せに(自我的な幸福の追求と実現)になったところで、真の意味で幸せとは言えないということを述べているわけです。

そして、自分も救いながら、ほかに救える人がいるのなら、何とかあきらめずに出来る限りのことをしていこうという思いですし、自分もまた他人から救われ、啓示を受けることもあると考えます。

自ら覚醒し、遠くロケットで飛び去って平和の王国に行く人たちもいいですが、どうしても、自分一人、あるいは仲間うちだけロケットに乗り込むということでは納得できず、ロケットを作る仕組みがあるのなら、それを理解し、皆で創り上げていきたい、大勢の人が乗れる宇宙船でもって王国へ航行して行きたいという感じです。

進化した次元の地球(太陽系)と、今のままの地球(太陽系)とは、見え方も、住民もまるで違うものだということはわかります。

しかし、たとえば、前者が青色の地球で、後者が赤色の地球だったとして、それを混ぜ合わせてにできないかという考えもあると思うのです。

紫にするためには、青も赤も必要で、その意味では混沌とした状態から、覚醒や進化した人、先に進む人(次元)が出る必要もあります。

そうして、青から赤の人に救済が働くこともあるでしょう。

マルセイユタロットでは、バランスや中立性、融合・融通性を象徴するカードに、「正義」と「節制」があります。

これはマルセイユタロットの秘伝図においても、中間段階の両端に位置するカードで、間を取り持ち、バランスと調和、そして共助的な救済をもたらせる意味があります。(ちなみに「節制」の天使の服の色は青と赤です)

マルセイユタロットのリーディングやこのタロットについて講義する時、私自身は、この二枚のカードを特に意識し、分野と次元の狭間で、自他共の救済を意識しつつ取り組んでいるものです。

私自身、特別な能力があったり、スピリチュアル的に進んでいたりするわけでもなく、現実(物質)的においても安定や成功をしているわけでもありません。中途半端といえば中途半端です。(笑)

すべての存在に感謝や愛というような心境にもなりませんし、先述したように、物質的・現実的充実を達成しているとも言い難いです。つまりは二極化のどちらにも行けず・・・みたいなところはあるわけです。

どっちつかずというのも、葛藤や悩みの象徴みたいに例えられますが、反転して考えてみれば、そういうところこそが自分の特徴とも言えるわけです。

ですから、「間」の人、その役割でもって生きることになり、それがむしろ、変なたとえではありますが、居場所のない居場所になり、使命的ものに任じてられていく(感じられていく)のです。

私と同様、中間とか架け橋的な立場を取ることで、自分の生きる道、バランスが保てる人もいると思いますので、人様の思う「よい方向」「達成」「進化」「成功」などに振り回されず、一見、中途半端でも、だからこそ両者をつなげられることもあるのだと思うと、自分が真ん中の位置で静止するようなスピン回転体のように定まってくるでしょう。

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