二極化の話について。

スピリチュアルな(ことに関心のある人の)話の中で、しばらくの間、もっともらしく言われていたものに、二極化という話(テーマ)があります。

簡単にいえば、高次と低次に人間(の意識、あり方)は分かれて行き、その後交わることなく、それぞれの次元で分離しながら存在していく(もしくは片方は消滅する)というものです。

それぞれにおいては、一見すると、まったく変化がない(分かれていない)ように思えるのですが、列車が分岐された線路を別々に辿るように、お互いは決して交わることはないので、これを第三者的な視点から見れば、やはり、ふたつの世界に「分かれた」「分かれている」という状態に思えてきます。

つまりは、天国と地獄の分かれ道に、それぞれ入る者が選別されるという、ある種の「分離・二元論」です。厳しい言い方をすれば、選民思想にも近いものです。

こういう事を信じて主張する人の間では、「統合」や「一元」「ワンネス」いう概念がよく用いられ、理想の状態として話されますが、上記で述べたように、二極化そのものが「分離」であり、言わば「差別化」の話なので、(主義主張の)構造上、矛盾したことにもなっています。

前にも何回か記事にしましたが、私自身は単純な天国・地獄行き分岐点のような二極化話には違和感を覚え、仮にそうだとしても、何とか(地獄行きのほうに)救いがないかと探ることも大事ではないかと言ったことがあります。

ただし、二極化の話にも一理あるとは考えており、宇宙的に、いわゆる「進化の方向(性)」(運動や方向性と言ってもいいもの)が大前提であると仮定すれば、そちらとは違う方向に行こうとしていれば、過大な抵抗を感じたり、削ぎ落とされてしまったりすることもあるのではないかと思います。

それでも、抵抗があるからこそ、大きな力が生み出されるとするならば、進化の方向があったとして、たとえ、それとは違ったものでも、すべては無駄なことではない(宇宙全体として進化・成長・拡大・遊戯している)と言えます。(計画のうち)

私たちは、どうしても物理次元や今の現実感覚でモノを見る傾向があり、それには時空(時間・空間)という縛り(自由を束縛するもの)でありながら、個別感と存在感(それはある意味、恩恵でもあります)を生み出している「仕掛け」が大きく関与していると考えられます。

「二極化」というものを、時間で見た場合、進化が遅れる人たちと早く進む人たちと見ることができ、空間で見た場合、別々の宇宙としてお互いが存在するというような意識で思考できるかもしれません。

おそらく、そのどちらも本質的には誤りというか時空的概念で縛られた(固定された)ひとつのモノの見方になっているのだと思いますが、私たちの意識においては、そうした見方でしか、なかなかか理解できないからこそ、分離・二極化するというイメージになるのだと思います。

もしこれをすべてひとつのこと(巨大な宇宙)だとすれば、全部あってなきようなもの、逆にないようであるものと考えられないでしょうか。

マルセイユタロットの「吊るし」の隠された意味にもなってきますが、私たちは個別と集合で夢を見ていると言われています。しかもその「私」や「私たち」というのも本当はないのかもしれないのです。

夢はまた別の夢を生み出しており、誰かや何かの見ている夢の中の世界の、さらにまたその中の世界の誰か、あるいは皆が見ている夢があり、そしてその夢の世界でも見られている夢があって・・・と、ずっと夢が続き、まるで合わせ鏡に映った映像が、奥の方までどこまでも続くかのような状態に(私たちの世界が)あるという考えがあります。

つまり、二極化というものも、時間や空間概念を取り払えば、すべて何かの夢として同時存在しているか、まったくないものとして見ることができ、わかりやすくいえば、自分(本当はこの自分もいないと言えますが)の中に、高次も低次も、天国も地獄も、ふたつに分かれたと思う世界(意識)もすべてがあるということです。

時間的にいえば、未来と過去を現在で同時に味わっており、時間軸にまたがった巨大な人間が、「時間軸の世界」を抱えて眠っていることになり、空間的には、ふたつ、いやそれ以上の個別に分かれた多次元の宇宙を、これまた一人の巨大な人間が宿して(夢見て)眠っているという表現になります。

これはまさにマルセイユタロットの構図とシステムそのものであり、タロット的にいえば、タロットも夢の世界を表していることになります。

こう考えると、タロット活用の最終目的は、おかしな話になりますが、タロットを使わなくなること、タロットが消える世界(タロットがいらなくなる世界)であると言えます。

すなわち、タロットを使っている間は、まだ普通の人間だということです。ですから、タロットを使いながら、人間である眠りを覚ましていくことが求められます。

しかし、いきなり目が覚めるのではなく、少しずつ消失していく(統合していく)プロセスがあり、先ほどの巨大人間の表現で言えば、いくつもの夢を覚ましていく必要があるということになります。(ひとつの夢が覚めることは、夢の中の人間と、その夢を見ていた人間とが統合することと同意であるため)

話が二極化からそれましたが、要するに、二極化の話も、いろいろな見方をしていけば、真なるところもあれば間違いと思われるところもあり、そうしていく中で、新たな考えや気づきも出てくる(夢が覚める)ということなのです。

こうして見ると、二極化の話は、やはり格好のスピリチュアル的題材というわけですね。

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