小アルカナの剣(マルセイユタロット)

タロットの小アルカナというパートは、4つの組に分かれています。

タロットの種類によって、4組の絵柄は異なっている場合もありますが、だいたいは、英語でいうと、ソード・カップ・ワンド・コイン、私たちは日本語で、剣・杯・杖・玉と呼称するもので成り立っています。

これは、いわゆるトランプの4組と同じで、トランプの一般的な組(スート)の表現として、それぞれスペード、ハート、クラブ、ダイヤとなっているわけです。

ちなみにトランプにおける絵札も、タロットでいえば、宮廷カード(コートカート)と大アルカナの「愚者」と関係し、組の数の1(エース)も絵札なので、ゲームとしては得点力が高く、重要なカードであることがわかります。

ということで、タロットを知れば、枚数の違いがあるとはいえ、構造的にはトランプと同じなので、トランプ占い、トランプリーディングも可能になります。(時々、私も講義の余興としてやることもあります(笑))

と言いつつ、今日の話題はトランプではなく、小アルカナ、中でも、剣の組のことです。

さきほど、タロットの種類によって、4組の絵柄が違うこともあると述べたように、同じ剣(ソード)の組であっても、その剣の絵がカードの種類によって異なるがために、絵柄の印象による読み方の違いも当然出てきます。(これは大アルカナも、小アルカナの剣以外の組もそうですが)

私はマルセイユタロットを使いますので、マルセイユタロットの剣の絵柄で、この組を解釈します。

ただ、日本で、メジャーに使われているタロットといえば、ウェイト版(ライダー版)になりますので、多くのタロットリーダーや占い師たちが、その絵から意味を見出すことになっているのも当然となっています。

ウェイト版の剣の組を見ますと、武器のソードとしての色合いが濃く、中には凶器に見える表現もあります。

私自身はウェイト版の絵柄がとても苦手なので、実はさわることもできないくらいなのですが(^^;)、それほど、マルセイユ版とは違うところがあります。

というより、マルセイユ版の小アルカナ、数の組のカードは、絵というより記号的なものになっており、とてもシンプルです。

ここから絵柄としての意味を読み取ろうとすることはむしろ困難で、従って数の象徴的な意味を理解しないと、なかなかマルセイユ版の数カードは読みにくいことになります。(数だけではない読み方も、当然あります、数も重要ですが、四大元素の象徴を理解することも鍵です)

そして、マルセイユ版の剣の組に着目しますと、なるほど、最初の「1」のカードや、奇数の数のカードには、まっすぐなソード状の、いかにも「剣」というものが上に向けて伸びていますが、偶数のカード、湾曲した半円模様の剣とも何ともつかぬ模様になっており、現代人の私たちが見たら、配線コードのように見えるかもしれません。

なぜ剣が湾曲したものになっているのかについては、諸説ありますが、ここでは、そういった曲がった剣を使う文化と関係していると言っておきましょう。(ほかの理由も考えられます)

ウェイト版は、小アルカナに絵をつけ、組ごとに、ひとつのスートリーが流れており、10で完成するようものとして構成されているようですが、マルセイユタロットも絵こそありませんが、実は1から10でもって、完結するということは同じだと考えられます。(マルセイユタロットのほうが時代が古いので、ウェイト版がモデルとした可能性もあります)

マルセイユ版の剣の組を数の通りにきれいに横に並べてみると、驚くべき模様というか、全体の絵柄が浮かび上がってきます。

それは半円系の剣を描ているからこそ、半円がふたつ合わさってできる「円」模様であり、さらに円と円とが重なってできる、通称ヴェスカ・パイシズ(ピスカ・ピッシーズ)と言われる魚の浮袋の形も見えてくるのです。

これは秘儀的に非常に重要な幾何学模様であり、剣の組には、この知性を磨くことが伝えられていると考えられます。一言でいえば、それは宇宙の智慧であり、グノーシスをタロットに見ているものは、それでもあると言えます。

マルセイユタロットの剣の組を見ていると、私たちの知性獲得の過程と言いますか、向上の順序が描かれているようにも感じます。

最初は、私たちは無知の状態であり、しかし、ひとつの偉大な神の剣、つまり神的知性は、内奥にはある状態で生まれますが、次第に人間としての生きる知恵、いわゆる普通の知識のほうを自分の中にたくさん入れていきます。(逆に神的知性は隠れてしまう)

現実を生きるうえでは、それは当然の成り行きで、自分を守るため、あるいは現実社会を渡っていくためには、仕方のないことでもあります。

最初「1」のカードに王冠とともに、偉大に華々しくあった大きな神性なる剣も、偶数カード(10は除いて)においては、直線的な剣そのものがなくなっており、奇数カードにあっても細くなり、次第に、湾曲した剣の数は増え、錯綜したものになってきます。

それに伴い、周囲の植物のようなものも、次第にシンプルになり、半ばくらいから色や方向性も含めて、違った雰囲気に変化します。

ここから、私たちは、途中までは、人との交流による知識の受け渡し、学び、実践を経験しつつも、やがては、本当の知性に目覚めることを目指すのだとわかります。

そのためには、「剣」の象徴として、無駄な知識はそぎ落とし、収れんし、本当の知性のための栄養としてささげなくてならないことが示されています。

これは、人間(生活)としての一般のこと、社会のこと、また身に着け、学習した様々な知識が無駄であると言っているのではありません。それが、神性的な知性、智慧を開くための肥しや重要な経験になるのだと言っているわけです。

最初から感性のみを重視する人もいますが、それはそれで個性としてはありだと言っても、マルセイユタロットの剣の組を見ていると、通常の思考や知識においても、やがてそれらがそぎ落とされ、凝縮され、高い波動に至る変容によって、高次の知性にたどりつく可能性も示唆していると言えましょう。

一度隠れた神性なる「1」の剣が、再び磨かれて現れる(10から別のステージの1に進化する)という印象です。

その前の、自分が取り組んでいたステージの完結を意味する10のカードでは、偶数でありながら直線的な剣が描写されており、しかも剣がふたつに分かれて交差している様で表されています。

いわば、現実を超えるための、自分の分身が生み出された瞬間かもしれません。

こういう剣の組の流れから、私たちは、迷いなからも、ひとつのシンプルな答えにだとりつこうとしているのがわかります。

これまで学んできた知識も成熟してくると、切り落とされ、収れんし、シンプルな直観になり、感覚的判断と似たようなものになっていく(しかし通常の感覚的なものとは次元の違うもの)ように予想されます。

しかし一方で、最終的にはひとつというより、もうひとつ(もう一人、もうひとつの世界)に気づくことが、知性の、ある種の到達点であることが剣の組から示されています。

剣の組は、まさに私たちが知性を鍛錬していく様を描写しつつも、孤独や孤高に達するようなイメージではなく、極めてシンプルな法則・リズムに基づきつつ、むしろ、この世界や宇宙が多様で豊か、かつ多次元で、あらゆるものが存在し、共存・関係・影響し合っていることを知るに至るのを語っているように思います。

こうして見ていくと、マルセイユタロットの剣の意味やイメージが、決して武器や凶器のようなものではないことがわかるでしょう。

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