生と死のシステム 死後の旅

私は大学時代、少し民俗学をやっていましたので、日本の伝統的な集落におけるいろいろな機能というものを、その時知りました。

よく環境が精神を作ると言いますが、逆に精神が環境を作ることもあり、それはどららでもあって、どちらでもないと言えます。

民俗学的な見方をしますと、伝統的な生活共同体においては、その両方のリンク性が、今より顕著であったことがわかります。

迷信を信じていると現代人から見れば思いがちの昔からの行事・風習なども、その村落共同体の生活を営んでいく意味においては、きちんと整合性が取れている(実際的理由がある)ことがほとんどです。

例えば、村の鎮守様、神社とかお寺、さらには祠が祀られているところなど、だいたいは環境的に汚してはまずいところだったり、あるいは不心得者や、部外からの勝手な侵入者を拒んだり、監視したりする機能を持っていることがあります。

東北大震災での津波被害(から守られたところ)の場所、近ごろの大雨による土砂・洪水災害などでも、まさにハザードマップに記されているがごとく、地域の大事な場所、安全な所、限界的な個所には、神社などの聖域があります。

このように、物理的な意味での環境的保存・警告としての機能が、聖なる場所などで配置されていたわけです。

それから、生と死ということで、生きている間での年齢別集団による社会教育、自立精神の醸成、男女の交際、結婚的なことにも働きがあり、さらには死後の世界への旅立ちにしても、日常的な宗教的行事によって、精神を安心させる機能も昔は自然と働いていたように思います。

葬式仏教と現代では揶揄されている日本独特の仏教観ですが、それも死にゆくものへの安堵として、精神に安全作用が働いていたと考えられます。

もうすぐお盆ですが、こうした先祖信仰も、それらの機能を担っていたと考えられます。(ちなみにお正月も先祖信仰と関係します)

私たち現代人は、「死」というものに鈍感であり、逆に非常に敏感過ぎる面もあります。つまりは、まともに死と向き合えないわけです。

こういう状態で、わけがわからず、死を迎えてしまいますと、精神的に混乱を迎えると言われます。

もちろん、死んだら終わりという唯物論的考えを採用すれば、そんな心配もいらないのですが、やはり、魂は永遠ということを考慮しますと、「死んだら、はいすべて終わり」というものではなさそうな気がします。

かつては、常日頃から仏教的行事を中心に、いわゆる法事的なことが行われ、死や先祖という観念にふれることが多かったものです。

ところが、もうだいぶん前から、共同体などというものは崩壊し、都市型社会で、さらに核家族化、独り身などの個人化も増大しました。それは必然的な時代の流れといえるものだったかもしれませんが、一方で、いろいろなものを破壊してきました。

そのひとつが、かつて持っていた日本人の死生観と、特に死後における霊的(サイキック的)イメージです。

どうやら、いろいろな資料を見て行くと、私たちはこの世とあの世の境目を正しく越えて行くことが、とても(死後)大事であることが霊的に言えるようです。

日本風に言えば、三途の川をきちんと渡ること、になりますね。

果たして、現代人は、自分が死んだあとの霊的世界のイメージ、いわば死後の旅のイメージに対して、どんなものを持っているのでしょうか?

ほとんどの人は考えたこともないというのが実情ではないでしょうか。

葬式仏教では、このイメージをうまくビジョン化することに成功していたように思います。それで先祖信仰とも合わさり、ご先祖や亡くなった親とか親戚、誰か縁のある人がお迎えに来て、無事、死後の旅がなされるという具合です。

けれども、今の人はそんなイメージもないですし、もし、死んだ後、魂が死を自覚したとしても、恐怖とか不安とかに苛まされ、見えるものも見えない状態におかれ、何かに囚われたり、逆にふらついたりして、旅そのものが出発できないおそれもあると考えられます。

一方で、意外に現代人に多い新興宗教(入信者)での死のイメージではどうかという話になりますが、それはそれでその宗教におけるイメージで死後の旅ができると思えますが、案外、新興宗教は規則が厳しく、罰則感も強くて、逆に死後、裁きがひどくなって、自らを地獄行きと決めつけるおそれもあるような気がします。

エジプトの「死者の書」にもあるように、古代から死後の旅立ちには注意が払われ、儀式化が生前からされていたと考えられます。

それらは時代によって、文化によって、変容していくのが常ではありますが、結局のところ、肉体と魂が癒着した状態の現実世界(この世)と、死を迎え、そこから魂が離れて、別の存在次元になるためのスムースな移行に向けて、神話とかイメージとか(宗教も含めて)が使われていたのだと想像できます。

裏を返せば、それだけ、死後の体(意識)への安全な移行は注意が必要だということでしょう。

今は、ライトスピリチュアルもそれなりに流行しているところもありますので、魂とか精神の世界を想像する人も多いでしょうが、どうもイメージとしては生きている間の充実に注意が行き、死後については希薄な気がします。いきなり宇宙に還るとか、愛に包まれるとかそんな抽象的なニュアンスのように見えます。(結局、死と向き合わず、結果的に避けていることになります)

「死」は誰しも訪れるものです。

事実ではないにしても、少なくとも、精神的に安心して死が迎えられる準備と、死後も大丈夫なのたど思える死後の旅へのイメージの構築が、案外重要なのかもしれません。

宗教も、共同体からのシステムも崩壊した現代、これまた頼りは自分自身、個人の努力ということになりそうです。(苦笑)

とりあえず、伝統的なものの死後システムのイメージは、それなりに安全と言えるかもしれません。

あと、個人的に思うのは、マルセイユタロットの大アルカナの絵図です。

これは伝統性も踏まえて、絵として、生きている時代の状態から、死後の状態も描いていると考えられるからです。つまりは、大アルカナのある種の進みが、そのまま死後の旅立ちのイメージを付与していることになるわけです。

マルセイユタロットをきちんと学んでいる者は、どこに自分が向かうのか知っています。

ゴールとか目標、さらには過程についても認識しているとなると、それだけ、道筋も確かになります。言い換えれば、生から死、そして次なるプロセスへの地図があるということです。

死後のためのイメージマップ、観念づくりは、リアリティが持てれば何でもいいのかもしれませんが、マルセイユタロットも、そのうちのひとつとして、特に現代人においては、知っておいて損はないのかなという気がします。

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