うつ 心の健康

精神的な問題や不調が起きる人に

いろいろな分野の講師たちが集う、とあるグループのスピーチコンテストに参加しました。

と言っても、私自身は聞く側に徹していまして、皆さまのスピーチから勉強させていただく立場です。

スピーチの内容的には、ご自身の経験からの学びや、役に立つこと、伝えたいことなどが披露されました。

それで、不思議なことに、と言いますか、今の社会ではもはや当たり前のようになっているのか、聞いていますと、たいてい、皆さん、精神的に何かトラブル(うつ病とか神経症とか、精神の不調を来すもの)に遭っているのですね。

そして、これまた皆さん同様に、そこから立ち直り、社会貢献やビジネスの形で再起し、自分の伝えたいことを伝える講師になられているのです。

私自身も神経症うつ病とか、パニック症状を起こしていた時期もあり、その後、マルセイユタロットに出会い、リーディングや講義の講師をしております。

以前は、その頃のこととか、回復に至る道などのこともブログに書いたり、人に語ったりしていたこともありましたが、今となっては、先述したように、精神的なトラブルや問題が起きることは、普通に誰しもによくあることになっており、別に人に話すようなことでもないと思って(心や精神は、回復してもまた何かあると問題になる場合もありますので)、誰かに聞かれたり、そのことを話す必要がある特別な場合を除いては、あまり語らなくしています。

ただ、人というのは、ドラマチックなストーリーを好む傾向があり、これは自らもそうでありたいというのと、他人の話がそう(ドラマチック)であると、聞く側の自分も楽しい、感動するということがあり、いわば自他ともに、ドラマ性を期待する思いがあるわけです。

ということで、自分を宣伝する必要のあるビジネスシーンにおいても、プロフィールは平板なものより、波と起伏のある、ドラマチックなものにすべしと言われることもあるようです。

例えば、昔ヤンキーをしていたけれど今は人気弁護士ですとか、ただの主婦だった人が、有名カウンセラーになって、多くの人を救っていますとか、大転回・大逆転ストーリーは、人の興味を引き付けますよね。

人を癒す仕事の場合、かつては自分がいかに大変な状態であって、癒されていなかった時があり、そこから今は調和に至り、幸福な人生を歩んでいるということを知らしめれば、今現在、癒されていない人、不幸だと思っている人にとっては励みにもなりますし、この人ならきっと自分をわかってくれる、救ってくれると思うことでしょう。

それはともかく、話は戻りますが、講師たちのスピーチを聞いておりまして、私なりに、ちょっと気づいたことを書いてみたいと思います。

 

●精神不調(心の問題・トラブル)の経験が当たり前の時代になっている

先ほども書きましたが、私が神経を病んでいた時よりも、今はもっと普遍的というと変ですが、誰しもが神経・精神の不調を経験してしまう時代になってきたということです。

これには様々な理由がありますが、そもそも、健全な世の中、社会であれば、これほど多くの人が精神や心を病むようなことはないはずです。

たいていの人はそのような体験がある、ましてや投薬や治療を受けたことがあると人も多くなっている状況なのです。

ですが、そうした精神関係の医療機関は増えたものの、医学的進歩の意味では、ほかの病気の分野より、まだまだ遅れている感じは否めません。

同時に、だからこそというわけではないのですが、代替医療や様々な心理療法、果てはスピリチュアルな分野からのアプローチまで、心や精神の問題を軽減したり、復調させたり、よい意味で改変したりすることが増えてきたと思います。

これだけ、心が不調になる人が普通になってきますと、それに対する問題解決を行う者や方法も増加するのは当然だと言えます。

経済原理的にも需要あっての供給です。ただそれが純粋な、これまでの医学的な観点からだけではないというところが、見えない心の分野だけに、特徴があるのかもしれません。

それと、単に心の病的な意味での不調というより、自分の生き方の悩みや、社会・世の中における自分を、いかに調整し、生きがいを持って生きたり、創造的に人生を歩んだりできるかという観点から、いわば治療的な対処だけではなく、発展的・創造的対処が、心・精神の分野には用いられているように感じます。

簡単に言えば、現実世界において、健全な精神でいられる状態をいかに作るか(保つか)ということです。

精神のトラブルを「病」の状態と見るのではなく、完全性の不均衡、調和に対する不調和、自分で自分を縛っているものによる影響で病のようなものになっていると見る向きです。

心の問題が多くの人に自覚、共有されていくことで、私たちの内面に向ける意識や考え方も変わり、精神、そして霊・魂というものにさえ、関心が行こうとしているように思います。

病む人とそれを治療したり、サポートしたりする人が、同時発生的に増え続け、これはマルセイユタロットで言えば、「13」と「節制」との関係とも言えそうです。この二枚はセットとして考えられ、すなわち、変容と救済なのです。

つまり、病む者、助ける者という役割分担で分離しつつ、一元的には、ともに変容し、救われるようとしているのです。(これを一人二役で体験する人も増えているわけです)

また変な話ですが、救済しようとする人が現れると、救済してもらいたい人が現れるという逆現象も起こっています。

しかし、それは順番が逆のようでも、結局、救わなければならない部分や人が潜在的に眠っていただけで、大きな意味では人類全体としての大浄化の流れに移行しているのだと見ることもできます。

 

●救済時に出会うメソッドと個性の強化

例えば私の場合は、マルセイユタロットでしたが、精神的な問題を抱えていた者が、何かのきっかけで、ある治療法や心を変えるメソッドなどに出会うことがあります。

もちろん治療のためということもありますが、人生のことを深く考えていた時に出会うということもあります。

出会う対象そのものについては、優劣や良し悪しは関係なく、たまたま、回復や治療のタイミングで出会ったものが、自分のその後の人生に大きく影響することがあるように思います。

回復・治療に至ったメソッドが仕事になる人もいますし、病気をきっかけに、自分を見つめ直す過程で、新たな自分として生まれ変わり、その体験から得たこと、気づいたこと伝道していく人もいます。

ともかく、出会うのが何であっても、また気づきがどんなものであっても、その人に与えられた新たな個性として、自分というものが際立ってくるようになります。

この現実世界では、際立つほうが生きやすいと言えます。

これは目立つというのとはちょっと違い、いわば、自分が自分である根拠とか、特徴、精神的には使命感のようなものでもあります。言い換えれば、生きる意味、反対にすると、意味をもって生きる、と表現してもよいでしょうか。

こうしてみると、精神的な問題は、マルセイユタロットの「隠者」のひとつの意味でもある霊的な危機と覚醒を象徴しているのかもしれません。

そして「隠者」と似たようなカードである「法皇」で表されるように、自分の経験から得た個性を用いて、人に伝達していくことになります。

ともあれ、技術・メソッドは何でもいいと思います。

運命的に言えば、出会うものは決まっていたようなもので、それがヨガであれ、レイキであれ、何でもよくて、重要なのは、あなたはそれによって個性が持て(自我が補強され)、現実を生きやすくしていけるということです。

精神の問題によって、心やスピリチュアルなことに関心が行くことで、一見、エゴから離れるような方向性に見えますが、その実、エゴは強まるのです。ここでいうエゴとは悪者のエゴではなく、自分を自分として認識する自我のことです。

つまり、精神的な問題を抱える人は、自我が弱い、あるいは逆に自我が強いものの、それがエゴとなっていて、しかしながら強いエゴなのに抑圧されている(自分であることを発揮できない、主張できない)状態にあるから問題となっていると考えられます。

ですから、まさに自分らしく生きる方法を選べば、自我・エゴが解放されるか、いい意味で強まって、その人にとっては楽になったり、生きやすくなったりするのです。

個人的には、マイナスのようなことから立ち直りや気づきを得て、成功していくストーリーというのは飽きていますが(笑)、ここで言いたいのは、今、精神的な問題やトラブルを抱える人は多くなっている時代でも、いろいろと見て行けば、全体としての成長に皆さん貢献している可能性があるということなのです。

心理的・スピリチュアル的には、自我・個性の問題が隠れているという点も指摘しました。

自分が今、救われるほうの側である人、つまりトラブルや問題によって苦しんでいる人は、先述したように、救う人もたくさん同時に生まれていますので、そういう人たちに出会うように自らを持って行けばよいかと思います。

平たく言えば、我慢して一人で抱え込まず、誰かに助けてもらうようにすればいいということです。

そうして助け・助けられという循環が活発になると、分離した個性は、やがて統合され、個性を持ちつつ他者と共有していけるような、新しい感覚が発達していくことと思います。

精神や心の問題が増えてきたのは、多くの要因として、今の社会システムの問題にあると言えますが、それとは別に、多くの人が精神・心・霊の重要性、内面の方向性の大切さに気づき、極端な物質的観点が解除されていけば、心のフィールドから共有化が推し進められ、全体としても解放と望ましい発展の流れになるからとも言えます。

精神的に苦しい状態にある人は、悲観的になったり、つらくて毎日大変だったりすると思いますが、今述べたように、全体としての成長に貢献しているので、生きている自分の価値はあるのだと思ってください。あきらめず、求めて行けば、救いの道は必ず開かれるでしょう。


体力と精神の古傷の浮上

このところ、毎日酷暑、猛暑が続いています。

もはや、エアコンがなければ、ふつうに人間の住む環境ではないような状態で、熱中症で搬送される人も激増しているようです。救急ネットワーク担当の方、救急隊士、看護師、医師の皆さんなど、本当にお疲れ様です。

この状況で、まともに働く私たち日本人の、ある意味、強烈さ、我慢強さのすごさを思い知らされます。しかし、この夏の時期に行う東京オリンピックも2020年に控えているわけですし、学校や職場も含めて、夏の酷暑の対応については、全体でもっと考えていくべき時に来ているのかもしれません。今までの習慣とか常識に、ただ惰性的・盲目的に従っていると、自他の命の危険に及ぶかもしれないからです。

もっと言うと、生き方とか生活スタイルの改変です。生産性も、本当の意味で効率的になるような方法も、今とは違ったやり方であると思いますし。

まあ、今日はそのことがテーマではないので、このくらいにしておきますが。

実は、私自身も、熱中症ではなかったのですが、ちょっと体力的に厳しくなって、数日前にふらついて倒れてしまうという事態(意識はあり)がありました。

もともとあんまり体が強いほうではないので、尋常ではない暑さのせいで、ちょっと無理が続いたりして起こったと考えられます。ですから、もしかすると、今後、ブログアップのペースが定期的に行われなかったり、しばらく記事がアップされないこともあるかもしれませんが、何卒、ご理解くださいませ。

そこで、今日は、体力的な消耗から来る、意外な精神の影響、古傷やトラウマのようなものが再発・浮上してくるおそれがあることも、示しておきたいと思います。

私の経験から言って、体力と精神力、どちらかがまだ強ければ(エネルギー的に消耗していなければ)、人は何とか崩れずに、保つことができると思います。

しかし、どちらも消耗してくると、回復させるエネルギーが、お互いにともにないので、どこか不調が出ます。それが肉体的な部分に出るのか(検査などで目に見える形で出るもの)、精神的に目に見えないけれども、明らかに心の不調として出るのかは、その人の気質や弱いほうに依拠していると言えましょう。

まあ、とちらかだけではなく、肉体的・精神的、両方に症状が出ることも多いです。

精神的なものでも、肉体のバランスが整っていれば、同じ影響でも、心にダメージを受けにくくなるように思います。反対に、たとえば姿勢とか呼吸とか悪くなっていて、心にもダメージを受けると、その衝撃は、いわばクッションのないようなものなので、ストレートに入ってきやすくなると考えられます。

これも鶏が先か、卵か先かの話で、体が悪いから精神も悪くなりやすいと言えますし、精神的にショックがあったので、体も(たとえば姿勢とかバランスとか)悪くなって、ますますふたつの悪循環で、病気や症状まで出てくるようになるという具合です。

落ち込んでいれば、体自体も落ち込みを感じやすい体になり、希望にあふれ、元気であれば、少々のことでは気にならず、力も入れやすい(みなぎる)状態になっているというわけです。

そして、意外に気づかないのが、うつ病とか不安神経症の要因のひとつに、体力の減少、消耗があるということです。

これも、先ほどの鶏が先か卵か先かみたいなことではありますが、精神的に悩んでくると、夜眠れなくなったり、睡眠が浅くなったり、ゆったりした気分になりにくかったりするものです。それで普段とは違う生活パターンになり、体力の回復を遅らせ、不安と悩むことでエネルギー消耗も激しくなります。

そうして体力が弱って、ますます精神的な悩みや問題が、普段の倍以上の大きさとして感じられ、圧倒的な力を問題(ネガティブな心)に与えてしまい、コントロールできない事態へと進んで、病気の段階まて進むと考えられます。

いわば、自分のエネルギーによって、ネガティブ感情をモンスターのように育ててしまっているとも言えましょう。自分は体力・エネルギーを消耗していくのに、ネガティブエネルギーは逆に成長していくようなものです。

マルセイユタロットで言えば「」のカードの、ライオンを暴走させているような感じにも見えます。

よって、精神的な問題の(起こる)前、起きないようにするためには、体力があること、下手に消耗させ過ぎないこと(疲れさせ過ぎないこと)は重要なのです。

また、これも私の経験ですが、一度、不安神経症やうつ病から回復したとしても、おそらく脳内の何かの神経ネットワークのつながりか、機能的な反応パターンが完全に消えているわけではなく、ふとした時に、そこに電気信号が強く流れるがごとく、ゾンビのように復活するようなことがあります。

通常時は、ほかのネットワークやパターンのほうが優勢に働いていて、変なパターン(以前のうつとか、神経症のパターン)が浮上してこないよう、コントロールされているのだと想像されます。

しかし、何らかのことで、特に体力的に消耗したり、別の精神的なショックを受けたりして、やはりエネルギーに変調を来した時、眠っていたパターンが起動し、再び、活性化しようとスイッチか切り替わるおそれがあると考えられます。

それが心の古傷パターンの復活です。一度修復されているので、以前の時のように激しいものではないでしょうが、それでも、健康状態とは少し違う、心の乱れ・不安を起こす可能性は高いです。

ここまで暑いと、体力を奪われる方もたくさんいらっしゃると思います。

熱中症の危険性は当然ですが、少し暑さが落ち着いてきた時、体力の消耗により、今まで眠っていた精神的問題のトラウマや神経症のパターン等が、これ幸いにと復活・起動してしまうこともありますので、体だけではなく、(以前、特に問題のあった人は)精神のケアも注意しておくことが必要かと思います。

いずれにしましても、孤独状態というのは、体力的に何かあった時も、精神的な問題が起こった時も、一人では対応しづらく、つらいものとなりますから、そばに誰かいるほうがよいでしょう。また専門家、医療機関の力も借りることです。投薬を嫌がる人もいますが、一時的には有効でもあります。

「私は強いから大丈夫」「私は一人がいい」と言っている人も、いざという時のためには、連絡できたり、助けてもらえたりする人をもっていたほうがいいと思います。

災害でもしかりですから、助け合いの精神がますます必要な世の中になってくると思います。

とにかく、体力が弱って、気持ちが弱り、精神的な症状や病のトリガーになってしまうことも理解されておくとよいでしょう。ゆっくり休むことは、体力の回復だけではなく、精神も守ることになるのです。


依存の中にある光

私が以前うつ病や不安神経症になり、大変だった時期は、普通より、かなり依存的になっていました。

平常な精神状態でいる時より、人・モノ・場所などに対して、つまり自分より外側のものへ頼りたがる傾向になっていたのです。

ただ、うつ病でも最初のうちは、通常のこと(仕事や作業等)ができない自分を責めることもあります。私も初期はそうでした。

しかし、次第に自分を責めるという感じから、とにかく助けてほしいこの状態から逃れたいという気持ちに変わってきました。

責める状態の時は、まだ余裕があったというか、どこかに自他(の領域・責任範囲)を分けて見ることのできる冷静さが残っていたと言えますが、うつ病だけならまだしも、不安やパニック的なものも病的に生じて、ものずごい苦痛や恐怖のようなものが実感として押し寄せるようになってきますと、まったく自分のことしか考えることができなくなり、だからこそ逆に、自分以外のものに対して、何でもいいから自分に救いをもたらしてくれることを求めるようになってしまうのだと分析できます。(あくまで自分の体験からの考察においてですが)

要するに、病的な精神状態になりますと、通常時の物事への認識のバランスを欠き、何事も極端に見てしまうようになるということです。すべてが大げさ・大ごとになってしまう(しかし、当人にとっての実感は本当にそう感じている)わけです。

このことから、人は物事に対して、自分の心次第で、その認識が変化してしまうと言えます。まさに、心(の状態)が変われば、物事の意味も変わり、深刻さ・軽さの度合いも変わるのです。

ということは、物事を、厳密な公平(中立)さ・ありのまま・素の状態で見るのは、誰においても、純粋な意味で難しいのかもしれません。

ここに、環境も大切ですが、外側のものに働きかけるよりも、自分の心・思い方を変えたほうが、全体認識の変化には効果的であることがわかります。

さて、今までの話と関連しつつも、ここからは少し内容が変わります。

外側(の何か)に極端に依存するようになってしまった時、これはまともな精神状態ではないと言えますが、人の性(さが)として、時に何かに依存してしまうような事態もあり得ます。

依存が必ずしも悪いわけではなく、依存している人を責めたり、批判したりしても根本的な解決にはならず、依存たらしめている要因・状態を探る必要もあります。

そして、やはり依存しているもの(人とかモノ)そのものが与えられても、その人が真に助かるわけではなく、依存物とは違う別の助けと、依存から脱却する境地の訪れが要請されるものです。

やはり思うのは、自分が依存的になっている時、自立の道から遠ざかっていることの警告だと思えます。

しかし、逆説的ですが、一方で、だからこそ自立というテーマが今起こっているのだと、依存(状態)を通して、その真の意味に気づくこともできるのです。

私がうつ病や不安神経症から回復したのは、休養したことや、仕事そのものを変えたことも大きいのですが、結局、いろいろなこと(それは普通の医学もあれば代替医療もあり、さらには占いやスピリチュアル、サイキックも含めた様々なこと)を治療過程でやってきて、結局、誰かや何かに治してもらおうと思っていたことの気持ちを変えた時(以降)だったからです。

つまり、依存から自立への精神の変容です。

マルセイユタロットでも、「13」という変容を如実に示すカードがあり、その次の数を持つカードは、天使姿の救済を意味する「節制」で、このふたつを並べると、向き合うような形になります。

言ってみれば、自立への変容を遂げた時に、本当の救済が訪れるという象徴とも考えられます。

しかし、だからと言って、自立を決意すれば依存は何でも脱却できるというわけでは、当然ありません。

自立精神を、すぐ立てることができれば苦労はないわけです。

苦しみながら、もがきながら、時に人やモノに依存しながら、グルグル回って私たちはやっと自立の道に進むことができます。

その過程においては、依存心を利用してだまそうという人もいれば、手を差し伸べて、きちんと援助してくれる人もいます。

注意したいのは、優しいばかりが援助とは限らず、反対に依存状態の停滞(「マルセイユタロットの「悪魔」のカードには、ひもでつなげられた人たちが描かれています)を助長するものかもしれないのです。

本当に苦しい時は、助けを求めて、一時的にでも楽になりたいと願うものです。

それでも、その苦しさと依存の状態には、心の奥底で自立を願う自分の精神があるのです。大変なのはわかりますが、すべてを依存させてしまわず(自分を捨ててしまわず)、独立・自立・真の自分の心があるのだと、心の片隅にでも願っておき、誰かや何かに助けを求めるとよいでしょう。

一言で言えば、救済は求めても、自分の本当の魂は売らないということです。自分自身への尊厳と言ってもいいでしょう。

「こんなに堕落した自分が・・・」「依存で振り回されている自分が・・・」情けないとか、「本当に苦しい、大変だ」「何でもいいから、誰でもいいから助けくれ・・・」とか、そういう状態になっている人もいらっしゃると思います。

そんな自分にも残されているかすかな、生きたい、幸せになりたい、成長したい、自分を救いたい・・・このように思う光の部分があるはずです。その一点だけでも大切にしていると、救済の天使は(あなたのその光が合図となり)訪れるでしょう。

絶望の中にも希望はあるものです。


うつ病時代の放浪から。

久しぶりに、うつ病(と神経症)時代について書きたいと思います。

それも、回復期についてのことです。

不思議なことに、いや、ある意味、必然だったのかもしれませんが、マルセイユタロとに出会った時が、実はもうほとんど回復していた時でしてた。

これから新しい自分に変わっていく、あるいは元の状態を取り戻していく時期に、タロットに出会ったのです。

(ここはまさしく「運命の輪」のサイクルを象徴として思います)

しかしながら、その前は、本当に暗黒というか、混沌の時代でした。

公務員だった私は、公務員の制度にも助けられ、休職と復帰を繰り返すような状態で、自分でいったい何をしているのか、いらだちとあせり、同時に休んでいる時の安心感、特には怠惰な気持ちさえもありました。

とは言え、全体的には、先行きの見えない、自分が何者で、どうしたいのかもわからず、それ(先のこと)よりも、今心身の不調があることで、どうにしかして元に戻したい、気にならなくなりたいという思いのほうが強かったことを覚えています。

ところが、通っていた医師の方には、申し訳なく思うこともありますが、やはり、当時(おそらく今も)精神(心の症状の)医療に対しては、まだまだほかの面よりも遅れていると言いますか、はっきりとした治療方法や処置が確立していないところがあったように感じます。

つまりは投薬される薬、面談だけでは治らないという思いがあったわけです。

こういう場合、あせりも手伝って、民間療法・代替医療、ひどい時には、あまりたちのよくない宗教家、占い師、霊能者、祈祷師などの、少々怪しげな者異端的な技術者を頼ってしまうことがあります。

私も実はそういう時があり、そのような方々が紹介されている本など購入したり、ネット(当時は今ほどネットが発達していませんでしたが)の検索や、人づて・噂に聞いたりして、実際に出向いておりました。

それはもう、ほぼ全国規模で治療家や解決方法を求めて彷徨い、北は北海道から南は九州まで(沖縄も行きそうになっていましたが(^_^;))、尋ね歩いていました。

この時の数々のエピソードは、今では講義のネタ話みたいに、生徒さんにお話することもありますが、今でこそ笑い話とかネタにはなりますが、当時の私は必死であり、金銭的にもかなりの金額を消費しておりました。まさに笑い事ではなかったのです。

とはいえ、ブログでよく言っておりますように、何事も両面、いいことと悪いことはあります。

そう、決して悪いことばかりではなかったのです。

まず、当時、気持ちはとてもそんな気分ではなかったのですが、旅をしているわけですから、各地の知らない場所に行くことが多くできました。知らず知らず新しい知見も得ていたのです。

そして、今では代替医療とかセラピーとかで当たり前にメジャーとなってきている各種療法を、実際にこの身で体験することもできましたし、セッションや相談を自分の体験として(クライアントの立場として)、経験することもできました。

もちろん、このことは今にとても活きています。

悪いことと言えば、先述したように、時間とお金がかなりかかったことです。

中でも、悪徳な人物とか(法外なお金を要求されたり・・・)に出会ったり、その人自身には悪気はなくても、得たいの知れない奇妙な療法を施されて、かえって具合が悪くなったりしたこともしばしばでした。

また、病院のようなところに強制的に閉じこめられるような体験もありました。

結局、かなりの人と場所を巡りましたが、自分の心身の調子が劇的によくなるとか、一瞬で変わる奇跡のようなことはなく(そう宣伝していたところもあります)、私はこの一連の体験で、「他人に治してもらう」という意識ではなく、自分が回復するのだという(他人が救うのではなく、自分自身が自分を助ける)意識(意志)のベクトルが間違っていたことに気づき、それからのちは、やたらめったら、どこかを探し求めるのではなく、今いる場所、今やっていることに集中し、落ち着くことを第一に選択していきました。

すると、心身も少しずつ回復し、いつのまにか気にならない程度になり、ほぼ「寛解」と呼べる状態に戻りました。

私はうつ病や神経症という不調を通して、このような経験と気づきを得たわけですが、これが正しいというつもりもありません。

これはあくまで私の体験と物語による教訓・気づきです。

しかし、皆さんにおいても、病気ではなく、普通の状態であっても、自分探しのように、あるいは何かうまく行かないことに対して、自分の内に原因があって、それを突き止め、治してもらえさえすればすべてよくなると思い込んで、各セッション・セラピー、精神世界系、成功系セミナーなどに通い続けていく放浪者となっている人がいるかしもれません。

そうした方へ、ちょっと違った視点をもっていただきたいと思う場合があり、私の体験とは分野と状態は違うものであっても、何かの示唆になればと、今回書かせていただいたものです。

冷静になれば、あなたは何も困っていないこともありますし、大変なように見えて、案外、シンプルに心定めれば、落ち着いてくるものでもあります。

無理に変わろうとしなくても、また変えてくれるものと強い期待をしなくても、あなたが経験することが、すでに自分の成長につながっているものなのです。

世界は一面では牢獄でありながらも、解放のチャンスはいつもあり、あなたの内なる神性と、救いの天使は、いつもあなたに寄り添っています。


不安を起こすもの 分離と統合

マルセイユタロットに描かれてる至高の目的というものは、言葉では表すことができないものです。

そして、変な言い方になりますが、至高のものを逆に言葉で表そうとすると、数多の表現もできるのです。

これは「本質」とか「真理」などと言われるものを表現する場合、どんなことにも言えることではないかと思います。

つまり、そういったものは、本当は言い表しようがないがために、それでもあえて言葉にしようとすると、一人一人の世界(個別)次元に下降するので、人の数だけ言葉が表現が生まれるとも言えます。

それはさておき、そうしたマルセイユタロットの至高目的のひとつに、「統合」という概念があります。

実はこの統合も、そのレベルとフィールドにおいても、様々なものがあるのですが、究極の統合を、カード一枚で表すとすれば、それは「太陽」であり、また結局のところ、「世界」とも言えます。

そして、どのレベルの統合においても、その前に分離というものがあることが示されています。

前・後という言い方もできますが、これは二元的なもので、並列や回転(循環)で表すこともできます。

言ってみれば対立概念でありつつ、一元から二元、二元から一元の運動的なものとも言えます。

ところで、これは私が神経症うつ病をかつて発症した時にことを思い出して、気づいたことがあるのですが、このような傾向を持つ人は、不安が高い人でもあります。

何事も予定通りとか、思った通りに済まないと不安になるという感じですし、先々のことをネガティブに多く想像してしまい、いわば取り越し苦労をして不安になるわけです。

この時、何が行われているかといえば、(先行きの)想像による創造です。この力がポジティブ方向に働けばよいのですが、実はネガティブも含めて、あまりにたくさんの想像を膨らませ過ぎていることが第一の問題です。

そして、もっと重要な第二の問題があります。

それは、その想像が感情と結びつくということです。感情と自分の意識が同体化してしまうことにより、自分の想像した(創造した)状況を現実感をもって味わってしまうことになるのです。

いわば、感情は想像したものへのリアルになるための彩りだと言えましょう。

従って、ここで大事なのは、感情と自分そのものとを、意識的に切り離す(分離させる)ことです。

感情が起きるのは仕方ないというか、そのように私たちはできてしまっているので、感情が起きることそのものを最初から分離するのは難しいでしょう。

しかし、自分が思ったことに対して感情を入れる、感情的になる、感情が動くというスイッチが入る前に、そもそも、その感覚を感じているものと、本体(本質の自分)とは別だと意識すると、次々と感情と同化して行ってのリアリティ感(つまり不安の増大)というものがなくなります。

要するに、感情のある(感じている)と、その奧や別にあるともいえる自分の本質という、ふたつの自分を意識するということです。簡単に言えば、感情について客観視することになります。

この時に思考や知識(人間の体や感情、意識についてのものなど)の助けを入れることもできます。

ただし、強い感情は、思考や論理を飛ばしてしまうほどの力を持ちますので、感情がリアリティを持つ前に、早々に切り離す意識を持つことです。

自己の本質と魂はイコールとはいえませんが、それに近い感覚を持てば、魂(霊と言ってもよいもの)の永遠性を思うと、肉体と感情が経験していることは、非永遠性、限定性、発生と消滅というプロセスにあるもので、魂・霊的なものと真逆だとわかります。

確かに、いわゆる皆が思う現実、自分が経験しているリアルというものは、自分の存在と他者の存在を実感し、ここに幸せも、また不幸もある面白味のある世界と言えます。

そのために、このリアルをエンジョイ(このエンジョイの意味は、幸不幸・喜怒哀楽の波すべてです)するために、感情はそのエンジンのための、燃料・養分・エネルギーとして供給されます。

ただこの普通の現実は限定的なもの(世界)で、始まりも終わりもあり、またどこまで言っても不安定なもの(移り変わるもの)でもあります。

一方で自己の本質(魂・霊的な本質)はその逆で、先述したように、永遠性や安定性(何にもならないという意味での安定性)を持つと言えます。

こうしたふたつのことを意識すると、下手に想像し過ぎて、それと感情が癒着して、ありもしない、しかし自分にとってはリアリティある予想図、今現在の幻想によって、自らを苦しめることは少なくなります。

想像の波と感情の波が合体すると、とてつもない大波となって、自分自身を見失いますから(いわゆるパニックに近い状態)、波が連続しないよう、早目に客体を意識することです。

感情の波が強烈なものになる出来事としては、恋愛・人間関係・経済(お金)・肉体(病気などの不調)があります。

こういう時こそ、例えば、マルセイユタロットの「恋人」カードにも示されているように、分離と統合の境目による意識化で、覚醒や意識転換のチャンスが訪れているともいえるのです。

最初は何もかもが自分と一体となって、統合というより、混沌の融合・癒着状態になっており、それに気がつくことすら、普通ではなかなかありません。

ここから癒着したものを分離し、切り分け、再整理・再統合していくことが求められます。

もろちん人生は、人それぞれの自由選択なものですから、そうせず(分離せず)、普通の現実でそのまま生活して行き、様々な経験による感情の起伏でエンジョイしていくのもありです。

この場合や、やはりネガティブな感情の波よりも、ポジティブな感情による幸福感を追求したほうがいいに決まっていますから、そうした幸福感に包まれる現実世界(つまり一般的な意味での幸せ状況)を自らが追い求め、それが実現したという世界に身をおいて行く(目的とする)ことになります。

どの選択をするのかは、まさに個人に任されていますが、 マルセイユタロットの場合は多層な世界観の象徴性があるため、このタロットを学ぶ者は、やはりいわゆる「現実」次元だけの見方(現実次元の幸福追求だけ)とはなりにくいでしょう。


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