コミュニケーション

コミュニケーションとリーディング

少し家族的にバタバタしておりまして、投稿もしばらくしておりませんでしたが、ようやく落ち着いてきましたので、ブログ再開です。(と言っても、アメブロ時代とは違い、こちらのブログはかなり不定期で、当方に何もなくても、長い間が開く時もあれば、短期連続投稿もあり得ます)

今日はタロットリーディングについての話を少し。

タロットリーディングというものはなかなかに面白いと言いますか、一筋縄ではいかないところがあります。

しかし、案外、単純に考えた(見た)ほうが読める(リーディングできる)時もあります。

タロットの学習がそこそこ積みあがってきますと、得た知識も相まって、複雑に読もうとする傾向も出ます。

木を見て森を見ず」ではありませんが、細かいところに気を回し過ぎて、意外に全体的に見れば答えはシンプルなのに、迷ってわからなくなってしまうことはあります。

あと、他人リーディングだと、相手の求めるものと、タロットが示すものとの調整ができず、どう伝えていいのかもわからず、特に性格が優しいタロットリーダーは、クライアント(相談者)の気持ちに配慮し過ぎて、いわゆる「迎合」となり、タロットの真意からはずれてしまうリーディングになることもあります。

結局、タロットリーディングというものは、自分、タロット、相手(クライアント・相談者)との三者によって成り立つもので、それぞれの間でのコミュニケーション、理解が必要になってくるのです。

それゆえに、単にカードの示す内容そのものだけではない汲み取り方、気の使い方みたいなものも入って、また人それそれに個性があるものですから、さらに解釈もひとつとはいかなくなってきます。

まあ、人間同士のコミュニケーションというところは、タロットそのものとは別問題になりますが、タロットとのコミュニケーションということでは、当たり前ですが、タロット特有のことになります。

ここで、「コミュニケーション」と言っているのには意味があります。

唯物主義的な考えの人とか、タロットや精神世界に興味のない人からすれば、カードとのコミュニケーションなどあり得ないでしょ?と思うのが普通でしょう。

いわば、タロットカードをモノ扱いするのが通常で、まるで生物・ヒトであるかのようにコミュニケートするのは異常となります。

しかしながら、タロットリーダーたるもの、タロットカードは単なるモノとはならないのです。個人的な意見では、ツールや道具(の機能)でもありなから、それそのもの(道具)でもないというのがタロットだと思っています。

要するに、生き物的な扱いをしているということです。(笑)

タロットの世界では、「タロットの精霊」という存在がいると信じられています。

「信じる」という言葉が宗教的で奇異だと思う人は、ひとつの概念や、モノとのコミュニケーションするための「設定」だと見てもよいでしょう。(「タロットの精霊」はそのようなものではないのですが、心理・理論的に考えたい人は、です)

タロットは、そもそも、人間世界における合理的な側面と、不合理的な側面とを統合できるものでもありますし、別の表現をすると、合理・非合理の矛盾性をあえて見せるものだと言ってもいいでしょう。

ですから、無理矢理、私たちの納得する因果関係とか、ストーリーの整合性などをタロットに押し付けても(というより、人間側が、人間側の説明で理由のつく解釈をしなくてはならないと強迫的に思うやり方は)、両者の共同作業の意味では、受け入れがたい面があるのです。

タロットは、普段私たちか意識しないこと、見えていないものなどを、カードの象徴性を通して浮上させることがあります。

それは象徴としての絵柄と、人間の心理の相互作用とも言えますが、あえてメルヘンチックに言うならば、タロットの精霊という存在が、タロットに読む人に対してマジックを施し、いろいろなことを見させているということもできます。

タロットの精霊の代表は、大アルカナの「愚者」で表されることがあり、「愚者」の絵柄とか意味、その言葉自体からしても、普通の論理性や通常の世界観で片づけられるような代物ではないことがわかります。

混沌と言っていいものも、「愚者」によってもたらされることもあるわけですし、トリックスター的に、ただかき回してトラブルを起こし、それを見て楽しむ存在かもしれないのです。

ゆえに、タロットが正しいことを伝えていると、必ずしも言えず、むしろ、間違ったことさえ見せていることもあるかもしれないのです。

ここで言う「間違い」とは、あくまで通常の私たちが考える、あるいは見ている合理性(現実性)の世界・ルールにおいての話で、あちら(タロットの精霊の世界、非合理や無意識の世界)では正しいかもしれないのです。

そのため、タロットリーディングとは、タロットの世界(精霊)と、私たち人間の世界(常識的世界の人間)との話し合い、協議であると言えます。

相手を認めつつも、お互い、変に譲ったり、折れたりするわけでもないですし、だましだまされの状態もあるかもしれません。

「手品師」などは、いかさま賭博師の象徴性もあるのですから、私たちが騙されているおそれもありますし、「悪魔」のカードならば、彼によって幻惑され、魅了されている節も時にはあるかもしれないのです。

まあ、例えれば、「異世界人との、不思議ながらも愛着のある交流」をしていくというような雰囲気でしょうか。(笑)

タロットリーディングの一面には、そういうところもあるのです。知識での解読とか、絵を見ての自分の直感・感性のもので読むなどとは別種のリーディングです。

ということで、タロットリーディングには、タロットとのコミュニケーションによって左右されるところもある話でした。


タロットグループにおける利点

かつて、カモワンタロットを日本で学ぶ場所(学校)として、国際タロット学院→タロット大学という機関がありました。

私もここの出身です。

ここ(その時代)での思い出話は、それこそ山のようにあるのですが(笑)、それはまあ、いいとしまして、今日は話したいのは、学びのグループについてです。

タロット大学(時代)では、東京を本部にして、仙台、名古屋、大阪、福岡という各都市を拠点とし、時折、講師陣が出張して、その他の都市などで講座を開催するようなこともありました。

そして、この拠点となっていたところには、自然発生的に、タロットの学習グループが存在していました。

私は関西・大阪でのグループの創成メンバーの一人でした。

私は当時、とてもカモワンタロットの学びと実践が好きでしたので、夢としては、大阪だけではなく、各都市のグループ同士とも交流して研鑽し、学びや技量も高め合いたいと考えていました。

実際、少しずつ、その機運も高まって来て、別都市グループとの合同勉強会なども実現できそうな雰囲気にもなってきていました。

しかしながら、事情をご存じの方がいらっしゃるとは思いますが、タロット大学とカモワンスクールの分離問題が起き、こういったカモワンタロットをメインとする学びのグループは自然消滅か、形を変えていくようなことになりました。

ちなみに、関西・大阪でのグループは、少し変化はしましたが、いまだ大元のグループは健在しており、毎月、大阪でカモワンタロット、及び、マルセイユタロットのリーディング勉強会を開催しています。(私はほとんど行けておりませんが・・・メンバーとの交流は続いています)

おそらく初期のコアの形のまま、今も継続しているのは、たぶん関西・大阪グループだけではないかと思います。

こうしたグループを作り、参加活動してきた感想としては、やはり、よかった面がたくさんあるなということです。

そもそも、私は動きが早いほうではありません。

これまで、いろいろな講座に参加し、学びを深めてはきましたが、特にビジネス系においては、言われたこと、学んだことを素直に実行に移す、シンプルな動きの早さ(実行力)が要求されます。

正直、成功哲学の王道(黄金)ルールのひとつとして、とにかく学びを素早く実行する(そして検証・改善し、再実行していく)ことが言えると思います。こういうことができる人が(いわる一般的に言われる)成功の可能性が大いにあるわけです。

私はこういうタイプではないので、学びはしても、いろいろと考えてしまい、結局、動かないままということもよくありました。(苦笑) まあ、今ではそれも個性として受け入れています。(甘んじるというのとは違いますが)

しかし、タロットの場合は違いました。講座後のグループ創設、グループの中での様々な作業など、自ら買って出ることが多く、それは苦にならずに、むしろ楽しいものでした。

ですから本当の意味で、自分が興味や関心を持ち、価値を感じているものならば(必要・不必要とか、成長のためかどうかとか、そういう観点ではないものです)、普段動かなくても、時に早く動いて活発になる(こともある)のだということです。

逆に言うと、それだけ自分を動かすものこそ、自分にとって大事なもの(になるの)だと言えましょう。

こうした(自分が積極的に)学習グループを作るというのも、そういう現れの可能性があります。

ただ、情熱は冷めるものでもあります。何かの学習グループを創設したメンバーであっても、やがては離れ、その学びさえ飽きたり、否定したりする人もいます。

タロットの4組的には、「杖」が火であり、情熱や行動を象徴し、最初はこういう着火により、行動して発展していきますが、それだけでは、やがて火も消えていきます。

ですから、他の要素、「剣」・「杯」・「玉」も継続や存続、変化には必要素となります。

例えば、杯(水)の潤いや感情としては、メンバー同士の学び以外の交流(食事会とか飲み会とか)、玉(土)として会費の徴収、それによる運営、剣(風)として、学習自体の研鑽、理念や組織の方向性・まとめを決めていくことなどがあるでしょう。

関西・大阪のグループがいまだに存続しているのも、実は「杯」の部分が大きいのではないかと思います。(必ず、勉強会のあとには食事会を開いているようです)

さて、タロットの学習グループにおいては、面白いことがよく起こります。

私自身の講座の生徒さんにもグループはあり、卒業後は、アフターファーローも含めて、その学習グループに、希望者は入っていただくようにしています。

そこでリーディングの討議などが、よく起こります。(私自身が課題としてネタを提供することもあります)

すると、当然ながら、様々な見方や意見が出ます。これは、別にタロットグループに限らず、どの分野でも起こることでしょう。

しかしタロットで面白いのは、見えない流域の働き(接触)があることで、カードの絵柄の象徴性により、言わば、グループの参加者の潜在意識下において、ある種のデータ共有化が起こり、課題の展開(出たタロットカード)において、一人一人、自分に関係した問題性を認識したり、まるで集合知のような形で、一人や二人程度では出なかったアイデアや読み方などが登場してくるのです。

そして、タロットの学習グループなので、参加者は、皆、タロットを知っていますから、よりカードの印象も残ります。

たとえ残らなくても、無意識下において、刻み込まれているとも考えられます。

そのことが、たとえ他人の問題と、それに対するリーディングであっても、自分の中でつながるものができ、言わば、知らず知らず、自分の問題性とも向き合っていることになり、また解決に向けたことも、自然になされているというわけなのです。

まさに集合的な作用が働くと言った感じです。

実は、学習グループだけではなく、こういったことは、体験会などでも経験しています。

マルセイユタロットの体験会もオンラインで今後開催する予定ですが、今度はこの集合的作用に力を入れた体験会、いわばリーディング中心の体験会を行ってみようと考えています。

私がリーディングするだけではなく、参加者の方に、タロットのことは知らなくても、直感とかご自分の経験から、他の方の問題や望みに対して、何らかの感想とか意見を述べてもらうというようなイメージです。

マルセイユタロットの場合、カードの絵柄自体はシンプルなものですので、意味がわからなくても、なんとなくこういう雰囲気であるとか、このような感じという印象は、誰でも持てるように設計されています。

ですから、カードの意味をまったく知らなくても、体験会の場合はいいのです。

よく言われるように、他者は自分の鏡のようなものです。他者のことでも、自分に関係しているということがわかれば、タロットリーディングが立体的で多角的、双方向性的なものであるのがわかるでしょう。

とにかく、この現実世界は、一人だけで成立しているものではなく、また、一人一人、個性を持つ世界です。

ですから、一人で解決できないことは意外に多いのです。

そう考えると、この世を生きる術のひとつとしては、他者と交流し、自分を調整したり、癒したり、高めたりすればよいわけです。

つまりは自分一人でもんもんと考えているより、ほかの人とか外部からの意見を入れたほうがよいということです。(いつもいつもというわけではないですが)

一言でいえば、助け合いが鍵になるのです。


ブログ再開 見えないネットワーク

ご心配をおかけしましたが、体調は回復し、今日はからまたブログを再開したいと思います。

ブログはだいたい、これまで通り、二日置きくらいに新記事をアップさせていくつもりですが、ちょっと今回のことで、心境の変化もあり、もう少しランダムになるかもしれません。

世間では東京を中心に、また新型コロナウィルスの新たな感染者増など、不穏な動きを見せていますし、九州では水害により、熊本で大変な被害が出ております。被害に遭われました方々にお見舞いを申し上げますとともに、お亡くなりになられ方のご冥福をお祈り申し上げます。

すでに数年前からですが、地球規模であらゆる面で変化の波が強制的にやってきているように感じます。

ブログを休んでいた時にも感じましたが、まず一人一人、自信が持てたり、イレギュラーなことに対応できたりできるよう、自分の心身を調整し、自立していく力と意思を構築していく必要性と、同時に、人間、一人では弱いところもありますし、こうした大変革の時代には、不安や恐れも増大し、どうしていいのかわからなくなる状態も起こりますので、助け合いの精神と実践が重要かと思います。

ですから、すでになにがしかの自立的精神と実情(経済など)を獲得している人は、これまで以上に、他の人の自立を援助していくことが求められると思いますし、逆に自分は弱いと感じている人、実際にいろいろな問題を抱えて悩んでいる人は、一人でどうにかしようとせず、他人や組織・行政などのサポートを受けてもよいかと考えます。

自分でできることは何か、それはお金とか行動、または他者にとっての意味だけではなく、精神的なこと、そしてまずは何よりも自分に対して自分ができること(本当の意味で自分の助けや成長につながること)は何かを考え、実行していくことだと感じます。

そして、これからは、無意識のうちのネットワークも重要になるでしょう。

マルセイユタロットで言えば、「恋人」カードの、人同士が実際に会話しているような物理的ネットワークではなく、目に見えない次元でのネットワーク、カードで言えば「審判」的なものを、いかに自分としてつなげることができるかということが大切になると考えます。

もともとそういうネットワークは、すでにあるとは考えられるのですが、ほとんどの人が自覚がないままです。(自覚なくてもいいのですが、悪いつながりをしてしまったり、よい意味で利用できていなかったりするという点が問題)

そして大きな問題は、つながってはいるものの、不安や恐怖、ネガティブな気持ちでつながっている場合が多く、これはわざとそうさせられているところもあるのではないかと想像しています。(「月」のカードと関係すると思います)

一人の気持ち自体は小さなものでも、たくさんの人とつながってしまうと、それが増幅され、巨大な一種のエネルギーと化します。それはまるで強烈な電流となって、皆さんの意識の中に入り込みます。

それが霊的な自立を阻害し、自分は何もできない、将来が不安、こうするしかない・・・などの牢獄のような縛りを作ります。いわば、悪い意味での電磁バリアのようなもので、電気の柵であり、檻です。

電気にはプラスマイナスがあるように、逆の性質をぶつけると、一時的には爆発のような不具合を起こすかもしれませんが、中和されて、ゼロのような感じになるでしょう。それは精神的に言えば、落ち着いた、クリアーな状態かもしれません。

つまりは、見えないネットワークにポジティブな電気信号を送り合いましょうというわけです。

頭の神経細胞のように、パータンとして電気信号の通り道ができてしまうと、同じ思考に留まりやすくなります。違うルートを開発して、そちらのほうを通常化する必要があるわけです。

おそらく、マルセイユタロットの絵柄と構図は、そういう見えないつながりを視覚化して、つなげていく役割もあると考えられます。

別にタロットがなくても、希望的な気持ちを持って、世界中にはよいネットワークがあると仮定し、そこにつなげたい、つながりたいという意思を持ち続ければ、自分もそこに加えられるのではないかと思います。(例えば、日本の神社などもそういうシステムがあると仮想することができ、神社にお参りして意識することで、つながりがつくと感じます)

それは、助け合いの精神が基盤でもあるように感じます。タロットで言えば「節制」心とでも言いましょうか。

自分が苦しい時は助けていくださいと祈り、楽になったり、少し余裕が持てれば、助けます、サポートします、苦しい人が救済されますようにと祈るわけです。

これは縦(過去から現在の時間軸)的に見ると、先祖因縁・成仏的な話にもなると思います。

横と縦での祈りとサポート(ネットワークとアクセスの完成)が実現すれば、それは(大)天使的救済(一人だけではなく人類全体規模の救済が大天使的救済)となって現れるでしょう。(「審判」のカード)


危機。つながり。愛。

東日本大震災の時もそうでしたが、世の中が危機に陥ったり、世情が不安な状況になってきたりしますと、人はつながりを求めるようになるようです。

つながりの中でも、やはり一番大きいものは、「人と人」とのつながりでしょう。

ほかにも、ペットなどの動物、育てている植物、周囲の自然・・・という感じで、つまりは生きていると感じるものにつながりを求めることもあるかもしれません。

もっと大きなものになると、大地、空、海、地球、宇宙・・・と広がっていくこともあり得ます。

つまり、私たちは、結局のところ、「生命」「いのち」を感じさせるもの、あるいは、それらを育むもの、守るものなどとのつながりを、危機によって回復する(思い出す)ことになるわけです。

普段、ほとんど意識しなかったことが、図らずも、危機や異常事態と思える状況によって、意識されるようになるのです。

これを逆に考えれば、私たちがほかの生命との「つながり」や「生かされている」ことを忘却し、自分一人で生きていけると傲慢になっているような時に、その思いを反省させられるかのように、危機が訪れると言えます。

まさに、これも、マルセイユタロットで言えば、「13」と「節制」のセットのことなのかもしれません。または「吊るし」と「世界」という関係にも置き換えられるでしょう。

さて、今は世界中の人が異常事態を認識している時です。

そうなりますと、先述したように、人は生命的なつながりを、より求めるようになっているはずですし、今後もそれはしばらく続くと考えられます。

しかし、一方で、注意したいのは、人工的・機械的ともいえるつながりも、バーチャル的に登場しているということです。

インターネットや通信技術の飛躍的進歩によって、膨大なデータが瞬時に世界中に流れるようになり、動画も当たり前に見られるようになりました。機器を通して見た動画や画像の世界は、次第に現実と変わらなくなってきています。

人とのコミュニケーションも、ネットを通じて実際に会わなくても、距離があっても、簡単に可能になりました。

最近は、Zoomなどの通信アプリで、皆さんもほかの人と自宅で居ながらにして会話することも多くなっているのではないでしょうか。それは確かに便利で、私自身もその恩恵にあずかっています。

一方で、よく考えますと、会話している相手は現実の人ではありますが、映し出されている映像は機器を通してもので、バーチャルな世界とも言えます。

会話している人が実際に会ったことがある人ならば、映し出されるものに違和感はないかもしれません。たとえ初対面の人でも、きっとこういう人だろうと、実感をもって私たちは映像を見ます。

会わない予定の人であっても、現実に会えば、映像の通りの人であることは、常識的にわかるからです。

けれども、リアル・実際で会うことが少なくなり、それが本当にまれで、めったにないような世界になってしまった場合、どうでしょうか?

果たして、あなたが見ている目の前の機械に映し出されている人は、本当にその人自身なのでしょうか? 

昔、出会い系などで、顔写真を加工していたり、別の写真を掲載したりして、実際に会うと別人だったという話を聞いたことがあります。今でもそれはあるかもしれません。

この場合は、文章のやり取りや姿を見ないままの会話が続いていて、想像の世界で人物をイメージしていたわけです。

相手に実際に会うまでは、自分のイメージの中にその人(の姿)は存在していたと言えます。それは架空のもので、現実ではありません

けれども、会うという設定がまったくない関係の中では、本当の姿を確認することができないままになります。それが常態化した世界では、リアルな自分・相手というのは、意味を持つのかどうかさえあやあやになってきます。

直接会うことがないのなら、いかようにでも、姿も性格も変えて、ごまかすことは可能です。

映画マトリックスのようなSF的に言えば、実在の自分はどこかのカプセルの中に固定されたままで、バーチャル空間が一般化されていて、そのバーチャル空間で見せる「自分」というものがアバター(化身)的に作られ、人々はアバターとしての自分(相手)が自分(相手)自身であると錯覚したまま、生活していくような話です。

これはバーチャル空間そのものが現実になっているようなもので、それならば、自分の理想とする姿・性格に変えて一生を過ごせばよいということになり、おそらく、人は似た者同士(理想の姿、理想の性格みたいなもの)になってしまう(悪く言えば金太郎飴みたいな存在になる)のではないかと想像されます。

これはいわば、バーチャルな天国なのかもしれません。(笑)

ならば、それも変な意味で理想社会であり、それを目指すというものも研究者で現れないとも限りません。

自分の望む自分が、全員実現できる世界ならば、それは誰にとってもよい話ではないかと思う人もいるでしょう。

そういった世界は、今は現実的ではありませんが、もし実現可能だとしても、おそらく、ほとんどの人は、本能的に「それは何かおかしい」と思うのではないでしょうか。

私はそのおかしいと感じるセンスが、とても大事だと思います。

しかしながら、一方で、皆の理想が実現するバーチャルな(文明や科学の進歩という言い方をすることもできます)世界が可能なら、それもありなのかもしれない・・・という、どこか幻惑されるような、タロットの悪魔から誘われるような(笑)、魅力もどこかにあります。

今日は何か結論や主張を述べたいわけではありません。

ただ、今起こっていることには、ひとつには、いのちや生命のつながり回復や、私たちそれぞれがバラバラに一人の力で生きている(自分がすべての)存在ではないことを思い出すためであると見ることもできますし、逆に、つなかりを求める気持ちが利用されるような形で、バーチャルな世界が加速し、人類の理想をバーチャル的に実現するような世界に向かっていく流れを考えることもできるということなのです。

これも、単純な良し悪し、善悪では測れません。

危機により、平時ではおよそ、つきあいや結婚の対象にならない人と関係が進むこともあり得るでしょう。

そのおかげで、普通では生じなかった関係性が深くなったり、知らなかった世界(相手)をよい意味で知ることができたりするという、新たな愛に目覚めることもある一方で、普通ならあり得ない人とつきあってしまったせいで、ひどい目に遭った、不安を紛らすためなら誰でもよかった、ただ結婚がしたかっただけ・・・と自分を大切にしないままに他人との関係を安易に持ってしまった後悔も起こるかもしれません。

ただし、後者の場合でも、自らが自分自身への愛を知るという意味では、大きいことである可能性もあります。

いずれにしても、いのち、生命、人とのつながりがなにがしかに刺激され、私たちは愛を学ぶことになるのだと思います。


仲介する自分

マルセイユタロットの大アルカナを見ていると、人間、あるいは人間でない存在も含めて、複数のものが出てくるカードと、単独の人物など、独立した感じの図像のカードとに大別されるように思います。

細かく見れば、単独に見えるカードでも、実はほかの存在が隠されて描かれていることもあるので、必ずしもそうとは言えないのですが、ぱっと見には、そういう分類も可能です。

そして、複数の存在の出るカードたちの中で、その人物(存在)たちの中心となったり、仲介をしたりしているように見えるものがあります。前者は「世界」、後者は「恋人」などが典型でしょうか。

今回、その後者と言いますか、仲介や架け橋役ということをテーマにしてみたいと思います。

タロット的に言えば、仲介や架け橋となる存在は、天上的な存在と、地上的な存在があるように見えます。

もっとわかりやすく言えば、実際の人か、人ではない存在かということです。

私たちは現実の世界では、当たり前ですが、「人間」である以上、私たちがなれるのは、(実際の)人としての仲介役、架け橋役です。

皆さんも、今までの人生を振り返ってみてください。

自分が仲介役になったこともあるでしょうが、特にまだ未熟な頃、幼い頃、若い頃などは、誰かに仲介されて、あるグループや団体、組織などに導かれたと思います。

それには、仲介された先が、悪かったこともあるでしょうが、あとで振り返ると、結果的には良かったと思えるところ(こと)が多かったのではないでしょうか。

俯瞰した見方をすれば、どちら(導かれたところが良かったところ、悪かったところ)にしても、自分ひとりで閉じこもっていては見えなかった世界、わからなかった世界を、ある人が仲介してくれたおかげで、経験することができたのです。

その仲介役が、天使か悪魔かで、行き着く先は違ったかもしれませんが・・・

今、天使と悪魔の対比をしましたが、実際の仲介する人は「人間」ではあっても、その背後に、天使的な力や悪魔的な力が働いている場合があるかもしれません。

すると、一口に仲介と言っても、現実の人間だけの意志や思いだけで、仲介されているのかどうかという問題(疑問)が出てきます。

常識的には、現実・実際世界の関係性・情報性の中で仲介がなされますので、それ以外の見えない世界の仲介や力などは、普通の人は考えないものです。

しかし、タロットなどの世界に関わっていますと、現実を超えた世界を見るようになって来ますので、いろいろな影響や原因も、見える世界だけで考えないようになってきます。

「恋人」カードにも、人々が気が付かない上空で、キューピッドが矢を射かけている図があり、このような見えない世界からの働きかけ、仲介があることが示唆されています。

ということは、仲介、橋渡し役というのは、人間だけではなく、見えない世界の存在、さらには「存在」だけでもなく、いわゆる「ご縁」のような「概念」的なものも含まれるのかもしれません。

ともあれ、ここで言いたいのは、私たちの世界は、当然ながら一人だけの世界ではないので、様々なことを体験したり、新しい考えをもたらせたり、意識の拡大が起きたりするためには、どこか別のところへ(新しい経験の場所へ)行く必要があるということです。

そして、そのためには、仲介役・架け橋役のような、旧から新へ、既知から未知へ、孤独から仲間たちのところへと連れ出してくれる人が重要なのです。

人は心地よいとか、逆に、あきらめ、絶望の世界にいると、何もしたくなくなります。現状維持、固定を望むというか、どうでもよくなって、惰性に生きるようになるわけです。

言い換えれば、自分から何かをするということが少なくなるのです。従って、他人の力が必要となってきます。

あなたを今の状態から外の世界や別の世界に連れ出したり、ほかの経験をさせてくれたりする人によって、あなたに変化が訪れます。

狭い世界にいる人は、自分からどうこうしないというのは、すでに述べた通りです。

ですから、皆さん自身が、仲介役にもなれることを意識して、お節介かもしれませんが、少し、ほかの人に、その人が知らなくて自分は知っている世界を味わってもらう工夫をしてみてもよいのではないかと思います。

最近は、自己アピールをすることで、むしろ自分だけの世界に閉じ込める(囲い込む)がごとく、何かファンとか、推しの人を取り合っているかのように見えます。ニッチな世界であっても、自分がお山の大将とか、個性のてっぺんみたいな位置にいたがる、みんながそういう場所を占めたがるような様相です。

自分が一番、自分が目立つという志向は、必ずしも悪いわけではないですが、ほかに生き方として、誰かと誰かを結び付けるあの世界とこの世界との橋渡しをする、そういうことで、自分自身の世界も広げ、人々に貢献するみたいな方法もあるかと思います。

それが向いている人もいるのです。コーディネート役と言いましょうか。

もちろん、お節介になったり、押し付けになったり、仲介のはずが迷惑になってしまったりすることもあるかもしれません。

宗教とか変な集まりとか、ネットワークビジネスとか、仲介役自身が何らかの利己的な利益・特典を受けたり、自分の強い思い(欲求)を満たすために、そういう役をしてしまうのは問題です。

そのあたりは、仲介する側だけではなく、される側も気をつけなくてはなりません。

しかし、まさにこのバラエティある世界の拡がりを、実際の人間として、純粋な気持ちで、つなげていく活動をすると、そこには天使性が働くのではないかと思います。

天使は、カードの「節制」においては救済の意味にもなります。あなたの仲介は、誰かに救済をもたらすかもしれないのです。

ところで、タロットリーディングもまた仲介の性格があります。

クライアントとタロットリーダーは、タロットを仲立ちとして、問題の解決を図り、双方の意識の変換や拡大、成長を担っていきます。

また、ある意味、天上と地上の架け橋にもなっています。(タロットがそういうツールでもあります)

心理学的には、自我と(統合的)自己の架け橋でもあり、何より、「太陽」のカードでも示される、普段の自分ともう一人の別の自分との懸け橋にもなります。それは神性なる自己と物質・心理的な自分との統合の過程とも言えます。

最初のほうに、実際は人が人を仲介する話をしましたが、あとでふれたように、見えない世界のことを入れると、その裏では、別の存在や、縁とかカルマのような「概念」が仲立ちしていることも考えられます。

そして、霊媒・ミディアムのように、心霊界と、現実の世界を仲介する人もいますし、カウンセラーなどは、心の世界と現実の世界を仲介しているとも言えます。

人だけではなく、儀式・祭祀のようなものでも、特別な演出が、実際の普通の世界と神や仏、祖霊の世界とを仲介させる役割をします。お墓参りすらも、お墓というものと祈りによって、亡くなった人と生きている人の仲介を、意識の世界で行います。

まさに、間々(あいだあいだ)の(仲立ち・仲介)世界は、そこかしこにあり、私たちは、様々に仲介し、仲介されながら生きているのです。

あなた自身も、きっと、誰かと誰かの架け橋になっているはずです。

そう考えると、人生とは、誰しも役割をもって生まれている、あるいは、誕生すると、役割が自動的につくことがわかります。

特に、年齢や経験が増しますと、仲介される側より、仲介していく側になってくると思います。今までよりも、積極的に、仲介役、架け橋役をやってみるのもよいのではないでしょうか。


Top