占い

タロット占いの提供に関して

タロットは、いまだ占いの道具という認識が一般的です。

そうではない意義や活用について、私の場合は力を入れているわけですが、タロットに限らず、普通にネットとか雑誌とかでよく見るのは、毎日や今週、あるいはもっと長期的に、今月とか今年とかの運勢を占っているものがありますよね。

占いも役に立つますし、エンターテイメント的に見ましても、そういう類のものを読むのは面白いところはあります。

しかし、問題は、それに依存したり、運命だと信じ切ってしまったりする場合です。さらにやっかいなのは、他人にも押し付けるようになるケースですね。

日々掲載されているものに対して、本当に、自分が毎日それをチェックしないとおかしな気分になるというくらいになっている場合とか、それを見ている自分を、人からあまりいいように言われなくて、怒りや不安など感じてしまうような時も、すでに依存を疑ったほうがいいです。

毎日のもの(占い)は本当に危険性があることをちょっと指摘おきますと、毎日の場合は、習慣性が高まるので、その分、依存になる確率も高く、毎日継続されることで、無意識のうちに習慣化され、悪い意味で刷り込み、信念のようなものが自分の中に形成されてしまうことにあります。

言ってみれば、自分が占いを指針にするのではなく、占い内容自体が自分をコントロールしてしまうということで、まるで逆の話になるのです。

ひどくなれば、占いの通りになるよう、自らが無意識のうちに行動してしまうようなことも起こります。

何のことはない、当てているのは、自分自身だったという、自作自演みたいな話(苦笑)です。

これは先述したように、毎日見る(読む)ことによって、自分の中でルール化されるのが強固になっていき、ついには、実行ブログラムのように強制化されてしまうという仕組みです。

従って、毎日よりも、せめて毎週くらいにして(つまり占いにふれない時期がそれなりにあることが望ましい)、占いを信じたり、楽しんだりする自分と、あくまで占いだからと冷静に見て、どこか疑う部分を持つ自分との、二人の自分を持って対応するとよいということです。

一方、占い的なものを提供する側にも、工夫が必要な時代に入っていると考えます。

毎日、タロットを引いて、普通の占い的なことを書くというのは、当人の占い訓練にはいいでしょうが、いろいろな意味で、そのやり方も変えたほうがいいかもしれません。

例えば、すでにやっている人も多いと思いますが、テーマ別に占ってみるというように、ある程度具体性・現実性を伴って占いし、書くということがあげられます。

また、思いきって、特定の人(年齢・性別・仕事・性格・地域など結構絞って)に対して占うのも、逆に個人性が出て、面白いかもしれません。

タロットの場合、たった一枚でも、質問の仕方によっては、大きなレベル(宇宙・国家規模)から小さな個人レベルまで、占う(読む)ことができます。

その一枚でも、どこに目が行くかによっても、読み方、占い方を変えることができますので、メッセージとしても、絵柄のどこに注目したかによって書くのも、見る側としては、とても興味深いものになります。

そして見る側は、それぞれ個人ではあっても、全体的ともいえる大きな範疇とか流れの話にも、興味がある人がいるかもしれません。激動や危機的な時代ほど、そういう傾向は強まるでしょう。

だから、全体的なレベル(の占い内容)をあえて入れることで、むしろ、そちら(全体性)のほうに意識を上げて行く意図を持つ、言わば、占いを超えたものをやってみることを、タロットのメッセージを提供する側には、やってもらいたいと、私は思います。

つまりは、個人レベルと全体レべルを常にセットで書くという意識と実行性です。

これからは提供者のほうも、それなりに意図とか目的をきちんと持って、書くべきだと私は考えます。(すでにそういう意識でされている方も多いとは思いますが)

誰に、何のために、それを書いているのか、たとえタロット占いといえど、目的があるはずです。

もちろん、営業的にやっている人には、集客という目的が裏にはあるでしょうが、それは読む側もわかっていることでしょう。

それは承知のうえで、しかし、あなた(提供者)がやっていることは、単にタロットで稼ぎたいということではないはずです。

世の中のビジネスには、当然、ビジネスとして営利を出す目的はあるにしても、特にタロットの仕事をしている人は、経済的なことだけでそれをしているわけではないと思います。

ただ漫然と抽象的にタロット占いを毎日書き連ねても、あなたのしたいことが伝わりませんし、集客的にもおそらく疑問の出る方法でしょう。

本当に、誰に対して、タロットを使って何をやりたいのか、それが特に対外的にタロットを使う方には、必要なもの(意識)だと思います。

そうすると、結局、提供者のほうも、自分と向き合わねばならなくなってきます。

言い換えれば、自分というものを改めて知らねばならないということであり、また知ったとしても、常に変化も伴い、自分自身の改革も求められることになります。

自分について取り組むと、最初は、自分が本当は何がしたいのか、余計わからなくなってしまう時期があります。

またビジネスとしてやっている人には、経済的・物質的なものと、精神的・霊的なものとのバランスに苦慮してしまうこともあるでしょう。

自分に関して、単純な好き・嫌いですら、つかめてない人も結構います。まずは、そういうシンプルな分析から始めてみるのもよいでしょう。

タロットを仕事とするからには、当然仕事としての努力とか、苦しさもあるとは思いますが、何と言っても、自分が本当にしたいことの本質からずれてしまうのでは、結局、うまく行かなかったり、継続できなかったりしますので、本質と表現の違いを理解しつつも、本質を曲げてまでやることなのかを問うのは、とても重要だと考えます。

何事も、する側・される側というふたつの方向性があり、占いやリーディングをして、皆さんにその内容を提供する側と、それを読み、参考にしたり、楽しんだりする人たちの側とがあります。

される側だけではなく、する側の意識が変われば、される側(受け取る側)も変わるでしょう。

ビジネス的には消費者のニーズに合わせるということもあるでしょうが、タロットは消費されるだけものではありませんから、むしろ、する側のほうの意識を上げて、表現自体はたとえ、占い・物質レベルであっても、霊的・全体的な向上の目的を込めることは可能だと思います。

そういう人たちが多くなれば、受け取る側の意識も変わって来るでしょう。

基本的に、責任というものは双方にありますが、私たち側(タロットをする側、提供する側)にもあることを、もっと意識する必要があるかもしれません。


今後の状況 タロット占い

私は占いを否定する者でありません。それどころか、まじめな占い師がたくさんいらっしゃること、そしてその方々がとても占い体系と学問を勉強され、世のため人のために少しでも役に立つように思い、頑張っていらっしゃることも知っています。

要は、占いに対する扱い方・姿勢の問題だと思います。それによって、依存する対象にも、よい指針にもなると言えます。

それから、占いを欲する人の心というものがあります。それは未知なるもの、現時点での情報とか知識ではわからないもの、そういう場合に、人は人智を超えたもの、神とか目に見えない超現実的なものに頼ってでも知りたくなります。

わからないものを知りたいという欲求、または、不安な気持ちを何とか知ることによって収めたい、安心させたいという思いが、人にはあると思えるからです。

ですから、人が占いをしたがったり、占い師にみてもらいたくなったりするのもわかります。

占いを妄信することは危険ですが、エンターテイメント的に、あるいは、ちょっと別種の情報ルートから物事を見てみるという視点では、占いも面白いと言えます。

さて、今、世界の最大の関心事と言えば、コロナウィルスの問題でしょう。

日本でも変異型の感染者が増え、一部地域とはいえ、三度目の緊急事態宣言も出されました。(ちなみに私の住む兵庫県も対象です)

この先、どうなるのか、どうしたらよいのか、不安に思っている人もたくさんいらっしゃるでしょう。

いろいろと情報を見ても、コロナウィルスに対して大げさにし過ぎという人や、今言われているコロナウィルスなど、そもそも存在しないという人、反対に極めて深刻にとらえて、特に変異の多様さ、その対応の困難さから、あと十年くらいは治まらないのではないか、元の生活は永遠に不可能という悲観論の人まで、様々です。

それもただの一般人の意見ではなく、医学関係者からも両極端みたいなものがあるので、私たち凡人には、何がなんだか、どうすればよいのか、混乱するばかりと言えます。加えて日本政府の対応の後手後手、全体的なまずさも多くの人が感じているところで、ますます先行きの不透明さに拍車がかかります。

まあ、コロナ関連ではいろいろとおかしな点はあると思えますが、今切実に思うのは、世界的パンデミックを迎えて、まだまだ猛威をふるっているのに、東京オリンピック開催が、なぜか止められないことです。

後世から見ても、この当時の人はいったい何を考えていたのか?と疑問に思われるでしょう。人としての常識・普通の判断を超えた何かが裏にあると考えられるわけですが、それにしても、それができない(常識的に、こういう状況で巨大祭典が停止できない)世界と日本は…と思うと、グノーシストの私からすると、ますますこの世界は悪魔の創った世界、あるいは悪魔的堕落に満ちた世界だと思わざるを得ません。(苦笑)

話を元に戻しますと、とにかく、この先、どうなるのか不安に思ったり、混乱していたりする人は多いということです。

ですから、心理的にも、占いで、結果はどうあれ、また占いとはいえ、先行き、今後の傾向を知ることで、少しは落ちついたり、心構えができたりするのではないかと思えるわけです。

藪蛇みたいなところも懸念されますが、占いをしてみるのも、心理的安心効果のひとつと言えるかもしれません。

ということで、今後の、特に日本におけるコロナウィルスの状況をタロットで占ってみました。言っておきますが、私はタロットを業としていますが、占い業や、占いの講師をしているわけではありませんので、当たる当たらないで言えば、当たらないかもしれません。(笑)

ところで実は、タロット講義においても、生徒さんに占いを息抜き的にやってもらうこともあります。先日、ある生徒さんにコロナをテーマにカードを引いてもらったことがあります。

驚いたことに、あとで、自分でやった展開(カードの出方)とほとんど同じだったのです。こういうところがタロットの不思議で、面白いところなのですが、違う人がタロットを引いても、テーマが同じであれば、結果的にも同じものが出る、同じことを表すということは普通にあるのです。

それによりますと、意外に安心できる(すごい感染拡大とか、悲惨なことにはならない)ということです。新たな治療法とまで言わないですが、治療や対策に関わる、よい情報がもたらされそうです。フェーズの変化という言葉がありますが、今は悪い意味でフェーズが変わり、緊急事態宣言を出す事態になってきたわけです。

しかし、これからはよい意味でのフェーズの変化が予想され、画期的、あるいは、これまでとは違った方法が生み出されり、常態化・一般認識されりすることで、比較的安心できる状況に移行して行きそうに見えます。それがワクチンによるものなのか、治療薬でのものなのか、それらを含める総合的なものなのか、それはわかりませんが。。。

個人的には、どちらかというと慎重派で、変異株(インドなど新たなものも来ていますし)のこともあり、去年よりも深刻で、この先の戦いも厳しいところがあるのではないかと思っていましたが、タロットによると、想像よりはましなようです。まあ、占いなので、はずれもありますが。(苦笑)

もちろん、現実的には、だからと言って、手放しで喜べる状況ではありませんが、恐怖や不安にかられている人、萎縮して悲観的になってしまっている人に、タロット占いからではありますが、少しでも気持ちが軽く、生きる希望、意欲をもっていただくようになれば、幸いだと思って、やってみた次第です。

これは私見ですが、コロナウィルスは人類の変容、これまで眠っていた人の能力を呼び起こすきっかけになるのではないかと思いますし、またそうありたいと願います。

マルセイユタロットで言えば、今後、鍵となるのは「審判」のカードでしょう。


占いへの受動と能動

タロットのリーディングは、たとえ同じ展開や引き方をしても、様々な階層・レベルに読むことができます。

それが象徴の働きというものです。

これは、方向性によっては、読む側、タロットを見る側の意識に左右されると言えます。

つまり、それは、私たち自身に、多様な階層・レベルの意識存在があるからだと見ることも可能です。

これはまさにタロットで示されている人の可能性・向上性の部分や、反対に人の悪魔性とか堕落性も認められるわけで、私たちは、どの意識(存在・生き物)になってタロットを見るかによって、タロット自体が姿を変えてくれるのだと言うこともできます。

さて、そんな多様な意識、見方のひとつに、受動的に見るか、能動的に見るかという違いがあります。

受動的に見るというのは、ただタロットの意味や感じたものをそのまま受け取る、あてはめるというもので、能動的に見るのは、タロットから意識的、あるいは意図的に、ある目的のために行動指針や精神、変革の方向性、解決策をアイデアする、創造するというようなものです。

前者は占いの観点に多く、後者はセラピーとか問題解決的な読み方でよくある見方かもしれません。

私が講座で教え、勧めているのは、後者なのですが、しかし、前者が必ずしも悪いわけではありません。

人の心理と言いますか、人情には、この先どうなるかを見たい、自分ではわからないことを、目に見えないことをただ教えてほしいというものがあるからで、そのような依存心はいわば誰でもあるものです。よく言えば、危機回避能力のひとつかもしれません。

依存ではなくても、情報がたくさんあるに越したことはない(これも必ずしも、そういうわけではないと思いますが)という考えもあり、自分ではわからない情報なら、とにかく手段を選ばず、知りたいという人もいるでしょう。

そもそも、情報がなければ動きようがない、対策のしようがないということもあるのです。

それで、さきほど、タロットの受動的な見方・読み方として、代表は占いであるようなことを言いましたが、その占いにおいても、活用で考えれば、受動的に取るか、能動的に情報として入れるかの違いがあると言えましょう。

占いを能動的に見る場合、ただ占い師とかネットや書物の占いを、そのまま受け入れ、吉凶、運命的に見てしまうようなことです。

これも別に悪いわけではなく、先述したように、知らないこと(単独では知りようのないこと)を純粋に知りたいという人の思い、何かの不安や危機状況を、少しでも和らげるため、占いに頼りたい・・・という人の心理があり、それで落ち着いたり、ほっとできたりすればよいわけです。

ですが、これには危険性もあります。

もし、占いが悪い結果とか、悪い方向性を示していれば、ただ占いを受け取るだけの形の人では、余計不安になることもありますし、前にも書いたように、ネガティブな情報が自分の中に刻印されて、それを実現させてしまうというメカニズムが働き、占いを当てようと自分自身が演じることもあるわけです。(ポジティブなものより、ネガティブなもののほうがインパクトが強く、潜在的に残存しがち、信じてしまいがちなところが、普通の人にはあるからです)

また、受動的な見方ばかりでは、運命論に支配されやすく、周囲からの影響も、悪い意味で受けやすくなります。言ってみれば、人のいいなり、洗脳されやすい体質になるわけです。自我を失いやすいとも言えるでしょう。

自我・エゴをなくしましょうという、スピリチュアル系の人もいますが、それも段階、個人の状況によります。

いきなり自我をなくそうとし過ぎると、簡単に洗脳されやすい、人に操られやすい状態になってしまいますので、まずしっかりとした自我を持つことが自己成長の意味でも重要になります。

そうしないと、マルセイユタロットの「悪魔」のカードに象徴されるように、強烈なカリスマ・個性を持つ人によって支配されたり、魅了されたりして、自分を失うことになります。(「悪魔」のカードの、ひもでつながれた人々になる)

以上のようなことで、占いを利用するのでも、能動的にしたほうが、結局は自分のためになる気がします。

能動的な活用は、占いをあくまで“一情報(ひとつの情報)”とみなし、自分の問題やテーマを分析・解決したり、目標達成を目指したりするための支援情報・過程とするということです。

この場合は、〇〇運はどうか?などの、漠然としたものを、占い師に見て(診て)もらったり、自分で見たりするのではなく、もっと目的を絞り、何をどうしたいのかを具体的に絞り、それを「お題」「問い」として、見る、見てもらうのがよいのです。それが能動的な占いへの活動、活用というものです。

最初から絞りにくいかもしれませんが、自分が注目したもの、フォーカスしたものに、周囲、いや、もっといえば世界そのものが合わせてくるようなことになると言われますから、何かをしたいのであれば、その何かを具体的に、細やかに、リアリティもって意識すること、イメージすることが、よく言われるように、やはり重要なのだと思います。

漠然としたものには、漠然とした効果しかないのです。

タロットリーディング、タロット占いにおいて、その質問をはっきりさせたほうがよいと言われるのも、この理由が、ひとつにはあるからです。(しかし、高度なタロットリーディングになってきますと、質問はかえって具体的過ぎないほうがよい場合もあります)

タロット好きな人には、占い好きな人も少なくないでしょう。

占いの受動、能動の違いは、別の言い方をすれば、占いを頼るすべてとか、支配する情報としてしまうのか、あくまで情報の一部とするかの違いであり、占いを王様にするのか、自分自身を王にするかの違いでもあります。(マルセイユタロットの「王冠」の象徴に注目してください)

どの道、占いをやるのなら(やってもらうのなら)、受動的な態度ではなく、能動的に活用したほうがよいです。受動的な見方は、遊び的、当たるかどうかを競うものなどとしてエンターテイメント的なものと割り切ると、それはそれで楽しめます。

結局、自分の人生をよくするのも悪くするものも、その多くは、自分の意識と行動次第なのでしょう。

占いやタロットをうまく活用できるかどうかも、まさに、あなた次第なのです。(ただし、その活用方法自体の情報・知識は必要かもしれませんが)


タロットで占う良し悪しとは?

タロットカードの使い方には、いろいろあることをこのブログでも触れてきました。

ただ、一般的には、いまだ占いに使うカードという認識でしょう。

そして、その占いにおいても、全体的な運勢を占うというものに使用するよりも、どちら・どれ(の方向性・選択肢)がよいかとか? あの人の気持ちはどうか?などといった、短期的なこと今の状態を知ること今迷っていることの選択においての判断を求める時に使われる傾向にあると思います。

タロット占いが、生年月日などのデータをもとにした運命を扱う「命占」ではなく、偶然に出たもので、言わば「偶然の必然性」をもとに占う「卜占」と言われているので、占いの分野においても、上述のような使い方になるのは当然と言えます。

そして、今述べたように、タロット占いが、長期的な運勢の流れというより、今悩んでいること、迷っていることの指針を選択的に出すことでの使い方になるのなら、今の問題や関心のある何かに対して、いいか・悪いかの判断をカードに求めるようになるのも当たり前です。

ということは、どうしても、カード自体にいい・悪い、吉凶判断を見ることになってしまいます。

では、ここで極めて根本的な質問になりますが、そのいい・悪いは誰が決めているのでしょうか?ということです。

そして、そのいい・悪いの基準は何なのか?というのも、皆さんに問うてみたいところです。

このテーマ(問い)は、タロット占いをプロとしてやっている人に対しても、少し考えてみていただきたいものです。

まず、いい・悪いは誰が決めているのかですが、これは人であるのは間違いないでしょう。

占いの現場では、タロット占い師が、出たカードの良し悪しを読んだり、判断したりしていますので、ここにおいては、決めているのはタロット占い師ということになります。

しかし、その判断のよりどころ、つまり、もともとのカードの意味は、その占い師が決めているわけではなく、先生に習って知ったか、独学して知識を得たかというものでしょうから、当人(占い師)が良し悪しを決めているわけではないのがわかります。

つまるところ、伝えられてきた意味とか、絵柄から決められてきた意味で、いいか・悪いかを見ていることになります。

ほかに、カードの伝えられている意味とは無関係に、直感として、占い師がこのカードはよくない、いい感じがする・・・みたいな判断になることもあるでしょうが、カードの絵柄と意味とは、それでも無関係ではないと思いますから、結局は、カードの決められた意味からの判断と言ってもよいでしょう。

では、さらに、カードの伝えられてきた意味、書籍や教科書、先生方から教わった意味を適用するとしても、その意味が、質問に対して、よい意味になるのか、悪い意味になるのかということは、カードそのものの意味とはまた別であることがわかります。

例えば、あるカードが「別れる」「離れる」という意味合いがあったとしても、「腐れ縁の人とどうなるか?」という質問では、よい意味になるでしょうし、「好きな人とどうなるか?」だと、よくない意味だと言えます。

カードの意味が、よい意味で解釈できるか、悪く解釈するかは、最終的には、人の価値観・または感情によると言ってもいいかもしれません。

そして、それらは絶対不変の基準ではないということが問題です。時代や国によっても変わりますし、個人においても価値観は変化していきます。

ただ、そうは言っても、やはり一般総合的、人としての普遍的に近い価値とか判断はあります。常識的に見て、それは不幸な道だろうとか、それは幸福なことでしょうね・・・というものは全員に当てはまるわけではないにしても、ほとんどの人には言えるもの、そういうものはあると考えられます。

言ってみれは、地球人類としての総合的価値観と言いますか、私たち全体が決めている基準のようなものです。これは。現実認識における集合的合意のようなものかもしれません。

それ自体は、おそらく数千年、ほとんど変わっていないものでしょう。ですから、いい・悪いの判断も、ずっと使い続けることができる(た)と言えます。

人の価値観は確かに時代とともに変わるものではあるものの、奥底には変わらない、誰しもが思う幸不幸とか、いい・悪い、吉凶的な感覚が共通意識としてあるので、それがタロットの判断にも使用されてきたということです。

難しい言い方をしていますが、何のことはない、いつの時代も変わらない、人の思う良し悪し、幸不幸という(価値・基準)で、見ている(部分がある)わけです。

説明が長くなりましたが、タロットカード自体は、絵柄のついた象徴カードで、その絵から類推される、ある意味合いは出ます。しかし、そのカードの意味自体と、タロットに質問する人と、解読・判断する人(占い師やタロットリーダー)が思う、カードの良し悪し的な意味とでは違うという話なのです。(ふたつの世界があると言ってもよいです)

ですから、タロットの象徴的意味合いは変わらないとしても、タロットを読む側、見る側によっては、タロットの、まさに解釈は変化してしまうのです。

ただし、今のところは、三次元的な現実認識の中で、普遍的ともいえる幸不幸・吉凶の意味が、ほとんどの人の中で共有されているので、その基準をもって、カードのもともとの意味合いをふるい分けることで、いい・悪いや、どの選択が(現実的に)よいのかなどのことが占えるのです。

従って、占い師やタロットリーダーの価値観と、質問者・クライアントの価値観が共通するものであればあるほど、カードの判断と納得感は、両者にとって大きなもの(バッチリ合っている感じ)になるでしょう。

ところが、カードを読み、判断する側、つまりはタロットリーダー・占い師側が、クライアントとは別の価値観のフィールドに、カードの意味を持っていくと、クライアントの思う価値基準とは異なることになりますので、言われている意味がクライアントには飲み込めなかったり、言われていることとは真逆の意味だと感じてしまったりすることもあるでしょう。

占いにおいては、これはまずいことになるかもしれませんが、タロットリーディングによる気づきをもたらすようなこと、意識の変容をもたらす目的になってきますと、むしろ、このほうがよいこともあります。

それは、クライアントの価値基準が、クライアント自身を苦しめていたり、自由性を制限させていたりする(束縛したりしている)からです。常識に対して、常識で対抗すると、かえって何も進まないのに似ています。

一般的な、今の人類社会に普通に考えられているような価値基準での判断の良し悪しも、先述したように、カードの意味を占い師側が振り分けたり、決めたりすることで、言わば、カード自体が吉凶羅針盤みたいになって、現実的な意味でのよい・悪いを導くことが可能です。

この仕組みは、先述した、人類の集合意識的な合意の層(ここでは、一般現実の幸不幸とか、吉凶を思う層のことになります)に、占い師がタロットをリンクさせるようなことになって、カードに、その価値基準をもとにした出方をさせることができるからだと考えられます。

ただ、これでは、三次元の数千年続く、常識的価値観の判断になります。

一般の普通の人は、それを求めていますから、占いの現場では特にそれでいいと思うのですが、スピリチュアルや精神世界を中心とする、私たちの意識や心、さらには霊的な次元の上昇、浄化、統合などを志す場合は、これでは足りないと思います。

この場合のリンクさせる層と価値基準は、哲学的に言うのならばイデアの層といえ、グノーシス的には神性の層、心理的には、私という自我を超越した層(しかし自分を支配するスーパーエゴ・超自我ではありません)になります。スピリチュアル的な表現をすれば、天上とか天使意識、ハイヤーセルフの意識です。

カードの意味や読み方も、現実的なことでの、いい・悪いではなくなってきます。むしろ、カードが問いかけ、意識を開かせるような意味合いになってくるでしょう。

このようなことをする意味があるのかどうか、占いバリバリの現場の人には、疑問に思うことでしょう。

大阪風に言えば、「実際(現実)の幸せの具体的アドバイスができてこそなんぼや、ふわっとした抽象的なこと言うても、お客さんのためにならへんし、そんなん、求めてはらへんのや、みんなお金があって、自由があって、いい人がいて、よい家族がいて、健康な暮らししたいんや」みたいな感じでしょうから。(笑、ただし、現場でも話を聞いてもらいたい、心を理解してほしい、わかってほしいという、カウンセリング的なケースも多々あります)

それはそれでいいのだと思います。占い師もサービス業であり、生活もあります。顧客に満足してもらうことが大事です。基礎的な暮らし、運勢がよくなって、充実しないと、先に進めないこともあります。

それとともに、今やっているカードでの占い判断というものは、いったい何なのだろう? 全体の幸せとは本当はどういうことなのだろうと、ふと、考えるのも悪いことではないと思います。

占いとは関係なく、タロットに関心のある皆さんには、一度、タロットに対して質問することで、「どちらがよいのか?」という質問方法自体を疑ってみることをお勧めします。

そうした質問をなぜしているのか、あなたの思う「よい」とは、「悪い」とは何なのか、何が基準で、何を求めているのかということを、あせらず思索すると、意外なことがわかるかもしれません。

タロットには根本的な絵柄の象徴の意味はありますが、意味そのものの解釈や判断、新たな吉凶的な意味を決めているのは、人であり、あなた(タロットを読む者)自身なのです。


タロット、ビブリオマンシー

皆さんは、ビブリオマンシーというものを知っていますか?

ビブリオは書物、マンシーは占いのことで、つまりは、本を使った占いです。

簡単なやり方としては、本を無作為に開いて、出たページに書いてあることが、質問の答えやメッセージだと見ます。

この時大切なのは、ビブリオマンシーに使う本の選別です。

どんな本でもできないことはないのですが、やはり、使う本自体に信頼を置いていることが重要で、占いとは関係ない本だとしても、自分がその本と内容に信頼や愛着がありよい言葉とか文章が書かれているものを選ぶことがポイントです。

いわば、本を神託の出所とするわけですから、それだけ本への神聖さというか、大切だと思えるものが望ましいわけです。

純粋な占いの意味でやってもいいのですが、私はシンクロにニシティ(偶然の一致、偶然性にある必然性)を見るために、たまにやることがあります。

まあゲーム的なことで、行うこともありますが。

私の場合、マルセイユタロットの本も利用します。

タロットの本には、最低でも、大アルカナの一枚一枚の説明ページがあることがほとんどです。

そのため、偶然開いたところが、どれかの大アルカナのページであることもよくあるわけです。これは、言ってみれば、タロットの一枚引きをしているのと同じになります。

そして一冊の本だけではなく、三冊くらいの本を使います。すると、大アルカナとか小アルカナとか、都合三枚くらい現れることになります。

同じカードで、重なることもあると思われるでしょうが、それはそれでシンクロ的な意味が強まりますから、よいと思います。

私の場合は、カードが重なることはあまりありません。だから、三枚引きしているような形になります。

ただ、面白いことに、似たような意味やニュアンスのカードがそれぞれに出ることが多く、本質的には同じことを言っているのだろうと推測することができます。

ここで、気づいた人もいるでしょうが、それならば、何も本を開かずとも、タロットを引けはよいのではないかと。

その通りです。(笑)

私が言いたかったのは、タロット占いは、見方によっては、実はビブリオマンシーの一形態と言えることもできるということなのです。

タロットは一種の書物なので、製本されて本の形になっていないだけで、1ページ1ページが本から離れて、自由に選んだり出したりすることのできるのがタロットと言えましょう。

ということは、78枚のページがあることになり、それをすべて読まないと、タロットという本を読了したことにはならないわけで、タロットを本という目で見ると、全体的・組織的・マクロ的な視点でもって扱うようになるのです。

同時に、タロットは本とは違い、ページそのものを本から独立させることもできます。

本のページは切り離されてしまえば、意味をなさないことがほとんどですが、タロットは、独立でも意味をきちんと持って、活用できるところが違います。

小さな者たちの集合体でありつつ、一人ひとり一騎当千の実力を持って独立した動きもできるという、恐ろしい軍隊です。(苦笑) あなたは軍師として、この軍を動かすことができます。

本といえば、マルセイユタロットで関係の深いカードに、「斎王」(一般名では女教皇と呼ばれるカード)があります。彼女は、その手に本を持っています。

このカード自身が「タロットという書物」の一部(一枚のカードと象徴)を示しながら、同時に、タロットの全体、一冊の書物としての重要さも表しているという二重構造になっています。

タロットは「宇宙の書」と言われています。精巧なタイプのマルセイユタロットの場合、この宇宙との関連を強調するため、「斎王」の持つ本の行数に、ある数を示して、宇宙との関係の意味を持たせています。

この行数は案外重要で、「斎王」を(主人公として)使った特殊なリーディング技法では、この数に応じたシャッフルや段階を経て、本の左右に置いて、自分の読むべき(入れる)知識と直感性(ふたつで二元性)を示唆させることがあります。

スピリチュアル的には、「斎王」の本は、実際の書物というより、ある種のエネルギーや波動ということも考えられます。本の行が波打っているところが、それらしく感じさせます。「斎王」自身も、自分の手にしている本に目をやっていません。

読まなくても、その内容がすでにわかっているのか、はたまた自分の手に余る特殊な文字やエネルギーで刻印されているので、その解読できる人を待ち受けているのか、いろいろな解釈ができます。

ビブリオマンシーのことに戻りますと、ビブリオマンシーは一人でやってもいいのですが、仲間とともにやってみるのも楽しいです。

グループで、ビブリオマンシーに使う本を選択し(一冊か数冊)、質問者と本を開く人を決めて、全員でやってみるとよいでしょう。

カードが描かれている本でもよいのですが、普通に文章だけのものでも面白くなります。

質問とはまったく関係ない本やページのはずなのに、そのページを読むと、不思議と、占ってもらっている人は、自分に関係していることを言われているように聞こえてくるでしょう。

お勧めは、ページごとにポエムのようなものが書かれている本がよいかもしれません。

例えば、私は今、ちょっと本棚を見て目についた、カルロス・カスタネダの「時の輪」という本を手に取り、私と読者の皆さんに、任意でページを開いてみます。(ビブリオマンシーをするということです)

皆さんも、何か質問とか悩みを思い浮かべてみてください。

さて、無作為に開いたページに書かれている言葉を載せてみます。

「悲しみとあこがれのない完璧さなどありえない。なぜなら、それらがなければ、まじめさもないし、いたわりもないからだ。いたわりのない知恵も、まじめさのない知識も、使いものにはならない」 (カルロス・カスタネダ著「時の輪」北山耕平訳 p216 より抜粋引用)

全然ピンと来ない人もいるかもしれませんが、もしかすると、皆さんの中の誰かは、このビブリオマンシーの言葉が、自分の悩みとか問いの参考になったかもしれません。私自身はちょっとびっくりのシンクロでした。

ビブリオマンシーを楽しみつつ、その一種でもあると言えるタロットマンシーも味わってみてください。(笑)

こうしたことができると言いますか、信頼するかどうかも、自分の見ている・経験している世界すべてが、繋がっている、関係しているという前提あってのことです。

世界がバラバラで無関係であり、ただの物質と目に見えている世界だけということしか信じられない人は、そもそも、こういうことをしても意味はないでしょう。(バカバカしいと思うだけです)

さらに、ただの占いで楽しむだけではなく、自分のしている行為が、高次の視点、真理を追究する観点では、どういったことなのかということも、必要なものだと思います。


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