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タロットを習って、いろいろな人と知り合う。

私はもともと地方公務員をしていましたので、やはり業界的には狭い世界に住んでいました。


普通に働いていると自分が余暇に何か活動でもしないと、知り合うのは同じ公務員か、公的な関係の人ばかりということになっていました。


必然的に、自分に近い考え方の人との交流になります。


いえ、逆もいえます


同じような人たちとつきあっていると、自分もそれに慣れてしまい、同様の発想や物の見方しかできなくなってしまうのです。


結局、自分の常識は職場の人たちによって社会的には形成されるといってもよいかもしれません。


そして私は公務員を辞め、占いや癒しの世界に入りました。


すると、私の交際範囲はガラリと変わりました。


まず占いですから、知り合う方に女性が多くなります。そして年齢層もバラバラです。さらには全国的、いや時には国際的に知人が増えていきます。


公務員時代では決して出会えなかっただろうと思えるような、個性あふれる方々、すばらしい方々に出会うことができました。(これからも出会っていくことでしょう)


また自分のガチガチだった考え方も、多くの人と交流をしていく中で、様々なものにふれて化学反応を起こしていきました。


タロットを扱う効果とも相まって、自分の思考や感情は、以前とはかなり違った柔軟なものへ変化していったのです。


しかし、恐ろしいもので、自分が長くいた世界での常識、思考方法は根強く残ります。いまだ私の頭は公務員的なところがたくさんあると自覚しています。


しかし、それも悪い面ばかりではなく良い経験と蓄積だったこともあるわけですから、違う世界の方にはそれがまた意外なものに見えることもあるかもしれないのです。


私自身を例にしましたが、このようにタロットを習えば、一緒に習われた方や、あとで勉強会などに参加してタロット仲間との交流を行っていくことにより、今までとは違ったバラエティに富んだ人たちと交際を深めていくことも可能です。


だいたい、占いを習うということは、一風変わった人(笑)であったり、何か自分の人生で大きな変化や運命的なことを考えてみたいという転機にある人たちであったりすることが多く、人間的に味のある方々と重要な時期に出会えることにもなります。


もちろんこれは自分側においてもいえる(自分の転機に人と会う)ことです。


ですから今後の人生において、大切となる友人とも出会える可能性は高いといえます。


趣味のつきあいは、社会においての地位や職業的なものを超越します。いわば学生みたいなものです。ある意味、誰もが平等です。


今のあなたがどんな暮らしをしているかとか、どんな仕事をしているかなどはほとんど関係ありません。


ここに本当の心のつきあいが生じる理由があります。


日々の生活に平凡さを感じているあなた、タロットを習って趣味の縁、趣縁を広げ、変化と潤いを得てみませんか。



笑いがあなたを救う。

私はその昔、とある過酷な旅にいました。


旅といってもツアーであり、本当はスケジュールも組まれている楽な旅行です。


ツアーですから、複数の人たちも参加していました。


何がつらかったのかと言っても、予想より旅が計画的なものでなかったことにあります。


こちらとしてもツアーだからと安心していた面もあったのですが、実際にこのツアーが、いろいろな意味で常識はずれなものだったことも確かでした。


とはいえ、今から思えば過酷だったことも結構楽しい思い出ではあります。


ところで人間、思ったこととは違ってくることが重なってきますと、イライラしたり不機嫌になったりしますよね。


そんな状態が、その旅の中頃から、参加メンバーの中に芽生え始めていました。


しかし、ここでつらさやイライラ感を、半ば自嘲気味に笑いに変えているグループもありました。


こんな感じです。

「ええか。これは普通の旅とちゃうんや、行き先がわからん旅や、そうそう、ミステリーツアーちゅうもんやで、これ」


「ミステリーツアーか、それは気がつかんかったなぁ、てっきり行き先がちゃんと決まっとると思とたわ」


「そやろ、オレもそう思とったんやけど、これに気付いてから、めちゃめちゃ毎日楽しなってん、次はどこ行くんやろ、明日は何が待ってるんやろと思うとワクワクして寝られへんわ。おかげで毎日寝不足や」


「いや、あんた、毎日、夜中抜け出して遊びに行っとるやん!」


「まあ、オレの夜自体がミステリーツアーやからな。昨日も気がついたら天国におってな」


「ほほう、女性でもおったんかい」


「ようわかるなぁ。。。もう周りは女性だらけで、ウハウハですわ。いやしかし、目的地が天国とは、こりゃまた粋なツアーやで、と自分で自分のミステリーさにびっくりしたわ」


「それ、天国ちゃうやろ」


「まあ、もええやん、それでさらにびっくりしたんはな、それからまたミステリーツアーになってしもうて、もう一度気がついたら、オレ、道路に寝そべっとったんやな」


「へ?」


「で、財布見たら、これまたすってんてんや。いつの間にやで。いやぁ、ほんまミステリーやわ」


「あんたとはやってられんわ」


とまあ、これはフィクションをかなり交えていますが、ま、こういう風にしてつらさも笑いにしていくと、乗り越えられるものなのですね。


関西弁にしているのは、やはり関西にはそうした文化があるからです。いわば、笑いによる自己防衛であり、物事を一瞬にして客観にしてしまう方法(問題を外側に取り出す方法)なのです。


このことは、タロットカードでは「愚者」と「吊るし」もしくは「悪魔」を並べるとわかるかもしれません。(「吊るし」や「悪魔」はマルセイユタロットの中でも、笑いの表情を持つカードであるからです)


またカモワン版マルセイユタロットを知っている人は、「隠者」にも笑いの要素があることがわかるでしょう。およそ、笑いとは無縁の知識の塊のような老賢人の姿を持つ隠者においても、笑いの力を知っているのです。


自分を笑えるようになった時、それはかなり問題から脱出しはじめていることを物語ります。


「何をそんなにあせったり、苦しんでいたりしたのだろう・・・」と自分の必死さに滑稽感を覚えるようになればしめたものです。


苦しいとき、ちょっとマゾ的ですが(笑)、「こんなにつらいっす、こんなに大変っす、こんなドツボっすわ、わたし」と自分を笑ってみることでかえって落ち着いたり、力が出てきたりするものです。


自分は正しい病

特に私を含めて男性にはありがちなのですが、「自分が正しい」病に陥ることがあります。


これはタロットでいえば「正義」(逆位置)のカードがよく表しているのですが、とにかく「正しいもの」を求めることを第一とする態度です。


このような姿勢でいると、考え方が「正しい」か「正しくないか」のふたつにひとつになってしまいますので、何事も決めつけ調になりますし、とかく何にでも批判気味となります。


批判は不満を呼び、正しくないことを正そうとし、ひどくなると行動をもって世の中にぶつけ出します。


もちろん正義は悪いわけではないのですが、この「正義病」のような自分を正当化することにとりつかれてしまうと、自分がある位置に固定したままとなって、進歩が止まる場合があります。


もうひとつ、正義の味方、ヒーロー(ヒロイン)みたいに自分を置いてしまうことも問題となります。人助けすることに酔ってしまうタイプですね。


いいことをしている自分を免罪符のようにしてしまい、自分のコンプレックス(葛藤やうまくいっていない部分)を麻薬のようにごまかす作用があるからです。


それにしても、そもそも「正しい」ことって何なのでしょうか。


法律や人道、常識などでそれらが規定されていたり、わかったりすることもありますが、意外に正義というものはわかりにくいものです。


国や時代によっても正義は大きく変わってきます。戦争時、相手国の人をたくさん殺せば賞賛されますが、通常時では殺人鬼です。


極端な例をいいましたが、とにかく自分が正しいと思いこむことは危険だということです。


「あんた、間違っているよ」といわれると、人はつい、カーとなったり、偏屈になったりするものですが、すぐ反論せずに落ち着くことをまずは自分に言い聞かせ、相手がなぜそのような主張をするのか分析したほうがよいです。


主張や論より、それを述べている人間に興味を持つと正義病から、ちょっと解放されることがあります。


正義病は二者択一の世界に生きていますから、何事も決めつけないと心が落ち着かなくていらいらします。グレーゾーンでもいいこと、第三の道があることがなかなか見えてこなくなります。


そういう意味でも、正しいことにこだわり続ける状態から少し視点をずらしていくことを始めると、今よりも余裕のある人生に変わってくるのではないかと考えられます。


時間の回転は傷を和らげる。

人は生きていれば、本当に傷つくことは多いものです。強い時ばかりではありません。


仕事・恋愛・家庭・・・様々な場面。


自分が悪いこともあれば、突然のアクシデントなどで一方的に傷つくこともあるでしょう。


しかし、有り難いことに、私たちは時間が流れる世界に生きています。


時間をを表すタロットカードに「運命の輪」があります。


「運命の輪は」、その名が示すとおり、輪であり円です。


これに反して直線的なものはストレートです。直線は時には刃物のようなキツさをもって、私たちに迫ってくることがあります。


円は丸く、回ることによって時間がかかります。相手に届くのも、自分に届くのもぐるりと円周を回らねばなりません。


もどかしいことはありますが、ショックを受けたり、傷ついた時は円が逆に緩衝材となって、ダイレクトに響くことを緩和します。エネルギーが丸いものに沿って流れざるを得なくなるからです。


ですから、時間の回転は心の癒しにつながるのです。


最近とてもつらいことがあったとしても、時が回っていくことで、何度もの時間の回転で、最初起こった時の強烈さは違った形であなたに届けられるようになります。そしてまた、ショッキングな出来事も別の思いで見られるようにもなります。


このように、「運命の輪」はただチャンスや時流に乗るということだけではなく、緩衝材や緩和していく効果として時の回転を見ることができるのです。


今心が痛い人も、つらくてパニック状態かもしれませんが、時が必ず解決してくれるようになります。少なくとも時間はあなたの味方となって、傷を和らげてくれることでしょう。


「吊るし」と「悪魔」の隠されている手。

タロットカードの大アルカナと呼ばれる22枚のカードは、そのほとんどに人物が描かれています。


そして「人」ということは、当然手足もあるわけなのですが、不思議なことにあえて「手」を隠しているカードがあります。


それが「吊るし」(他のカードでは「吊され人」とか「吊された男」)と「悪魔」です。


吊るし」の人物は逆さまに吊られた状態で、手は後ろ手になっていますので手が見えません。おそらくほとんどの人がこのカードを見た時思うように、手も縛られているのではないかと想像できます。


しかし、カモワン流の解釈ではこの「吊るし」の人物は吊されているのではなく、自らが好んでこの姿勢をとっているとしますので、手もまた自分から後ろにして結んでいるのかもしれません。


一方の「悪魔」ですが、このカードには悪魔と思われる人物と、その悪魔を崇拝しているかのような二人の裸の者たちが描かれています。


手が見えなくなっているのは、悪魔ではなく、つながれている二人の人物のほうです。


この者たちはともに悪魔を見て、心酔しきっているかのように笑みを浮かべています。


二人がしている後ろ手状態は、やはり「吊るし」のように縛られているようにも見えますし、手を表に出さないことが楽しく、自然にさせられているようにも感じます。


手はいろいろなことを象徴します。


手先を使うということで、カードの「手品師」(ほかのカードでは「奇術師」「魔術師」)にもいえますが、「仕事」を表すこともありますし、そこから個性・パーソナル、その人そのものを示すこともあります。(仕事が人を社会的に表すことがあるからです) 


また手を使うことは文字通り、手段ともとれますし、印を結ぶということなどからも呪術的な意味合いもあります。手当という言葉からも、治療やヒーリング的な行為を表すでしょうし、手当はまさに手当として働いた報酬・お金を意味することもあるでしょう。


さらには手は五感の刺激を受け、全体を把握するための有効な装置となっていますので(手でさわって感じるように)、手の自由を奪われるということは、まさしく人としての自由を奪われるのに等しいともいえます。


罪人を拘束するのに手錠が使われていることが何よりの証拠でしょう。


こう考えてみますと、現実世界で生きる私たちにとって、手(の自由が利くこと)はいかに大切かということを物語っているといえましょう。


その手をあえて隠している、あるいは隠されている「吊るし」と「悪魔」のカードは、いったい何を私たちに示唆しようとしているのでしょうか。


ここで「吊るし」と「悪魔」の二枚の手の隠され方に注意してみる必要があります。


「吊るし」は自ら吊るし状態を選んだ人物だとお話しました。ということは、後ろ手にしているのも、自分の意志だと考えられます。


それに対し悪魔につながれている二人の人物は、自分からということもいえるかもしれませんが、どうも悪魔の影響によってそうせざるを得ない、そうさせられていると想像できます。


つまりは自らと他者からの違いです。


手をあえて使わないようにする、使われないようにするということは、結局先述したように個性や自由を奪うことにはなるでしょう。


しかしハンディとも思えるある縛りをかけることで、逆に見えてくるものもあります。また自分が個性だと思っていたものはわがままな我であって、それを抑えて物事を観察することも時には有効かもしれません。


それらが「吊るし」のほうのひとつの解釈です。


反対に「悪魔」は、手で反抗できないほどの影響力、自然に従ってしまうような(好きになるような)力を持つことをいわれているように感じます。その点では「力」のカードと共通している部分もあるのです。(カモワン版を学習した人は、「力」と「悪魔」にはもともとあるシンボルで連繋していることを知っているはずです)


またあれこれ手を出すのではなく、悪魔という大きな存在に導いてもらいつつ、自分で手鎖をはずす事を学んだり、気付いたりすることも示されているともいえましょう。


こちらは自分の個性に気が付いていなったり、自分が何をしていいのかわからないような人には参考になる方法でもあるといえます。結局は自分の自信や本当の自分の良さに気付くための仕掛けでもあるのです。(以前の悪魔の記事 も参考にしてください)


けれどもここで述べたのは私のひとつの解釈に過ぎません。もっと別の多くのことを思い起こすことも可能でしょう。


この二枚は、ほかのカードの中でもネガティブに考えてしまいがちのカードでもあります。


隠された手のこととロープの象徴に思いを馳せながら、できるだけポジティブなことも想像していくと、人生そのものへの効果的な訓練になるかもしれないのです。


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