タロットで見る「本の読み方」

皆さんも読書をされると思います。


小説や物語のような、純粋にストーリーを楽しむ場合は何も考えず、そのまま本を読めばいいと思います。


しかし、これが知識をつける、あるいは人生の質を向上させようという目的の場合は少し異なってきます。


このことを考えた場合、カモワン版マルセイユタロットにおけるタロット絵図・タロットマンダラにおいて、第二列目が示唆を与えてくれます。


タロットマンダラ第二列は一番下から「斎王」「隠者」「神の家」というものになっています。


このうち、「斎王」には明らかに誰が見てもわかるように「本」が描かれています。


ではほかの二枚も「本」に関係するのかといえば、この場でははっきりとは言えませんが、特に「隠者」にはその名の通り、「隠されて」本が描かれています。


ただそのことに気がつかなくても、今から述べることは理解できるものです。


まず、一般的に知識的に読書をする場合、ノウハウや知恵、情報を仕入れようと読むはずです。


その時、何も知識がないまま読むということは赤ちゃんでもない限りあり得ないでしょう。そして赤ちゃんは本は読みませんね。(笑)


何が言いたいのかといえば、人はすでに自分にある知識や情報を基準にして新しい本といえども読もうとするということです。


この場合、新しい本を読み進める内に「どうもこれは役に立たない」と見切りをつけてしまう場合があります。


それは自分のすでにある知識と比較しているからです。つまりは思いこみによって、新しい本の知識・情報を無駄だと切り落としているのです。


これはもったいないことです。


タロットマンダラの下段第二列の「斎王」を見ると、本を手に取ってまずはすべてを受けて入れているのです。


そこから私たちは読書においても、とにかくあまり先入観を持たず、いったんは受け入れるということが求められるのだと気がつかされます。


しかし、やはりどうしても自分の価値観や基準というものが出てきますが、それはそれでいいのです。


自分がすでに身につけたもの(知識・情報)と照合し、それが正しいのか間違っているのか、あるいは正誤の判断を超えた新しい示唆が本から得られるのかなどを吟味する段階が、次の「隠者」の段階なのです。


「隠者」はランプを持って探究しているように見えますが、そのことと符合してきます。


そして、その探究、つまりこれまでの知識と新しい本によって得たものとの比較検討などを経て、最終的には「神の家」に到達します。


いや、まだ厳密には到達していないと言えます。「神」と表現されているように、それは相当高い次元の段階であり、いわば真理への到達というものに近いからです。


ただ「隠者」までの段階のものでも、すべては「神の家」の建物のレンガ積みの一部となっていくのです。


それが積み上げられ堅固なものとなった時(用意が整った時)、最後には神の光が流入するかのような大きな気づき、仏教の言葉を借りれば「大悟」となるのです。


「隠者」の段階であなたが今まで身につけた、あるいは最高と思っていたもの、信じていたものがそのまま残ってもOKです。


それは結局、あなたが身につけているものがすばらしいということの証明や補強になるからです。


しかし、たいていの場合は新しい知識と融合して自分の枠や殻がさらに破られることにもなります。


その状態はまた「隠者」と「神の家」の段階でもあります。


結局、知識の面で本を読むということは、何をしているのかといえば、究極の法則や真理・悟りと呼ばれるものに近づくための情報を仕入れているということです。


ですから、もっとも大切なことは知識と知識の間の共通点を探すということになります。


それこそが根源的なものでもあるのです。


その意味ではどの本も等しく重要で価値あると言えます。


ただ何も考えずに表面的に知識を入れること、あるいは自分の対外的な価値を上げるだけのために読むというのでは、ある意味無駄といえるかもしれません。


つまりは知識を仕入れるための読書の場合でも、その背景や目標に「神の家」を置いておくと、大きな意味で効率的でもあり、有意義だということになるのです。

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