個性なんて実はないのかもしれません。
まずお知らせです。
昨日メルマガ(講座を受講生された方用)第1号を発行しました。早速ご感想も何人かの方にいただいており、とてもうれしく思います。もともと書くのは好きですので、感想や反響が多ければ多い分、どんどんと発行ペースも上がるかも(笑)です。
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さて、
人は多かれ少なかれ、いろいろな人格をもって生きています。
職場の自分、家庭の自分、趣味の自分、大勢の前での自分、一人の自分、過去の自分、未来の自分など、私たちは一人でも幾通りもの顔をもって人生を歩んでいます。
これはよく言えば人は順応性のある生き物だと言えますし、巧みに自分の仮面を付け替えることのできる器用さを持つということでもあります。
仮面はペルソナとも言い、パーソナリティ、個性・人格とも訳されます。
「私の個性はこうだ」と思っていても、人から見れば、あなたが自分で想像している個性とは別の人格を見られているかもしれないのです。
そう考えると「自分が自分である個性・人格」とはどれであり、何なのかわからなくなってきます。
結局自分というものはないのかもしれません。肉体を持ち、生活を実際にするがために個性があるように思えるだけで、本当は個というものは存在しないと考えると、ちょっと怖くもありますよね。
これがおそらく存在喪失(自分がなくなること)への恐怖であり、タロットカードでは「13」が象徴しているように感じます。(死の恐怖もそれだと考えられます)
先ほど、自分の個性は人からそう思われている個性もあるのだという話をしましたが、すると面白いことにも気がつきます。
私たちの個性は実は人から見られる(思われる)ことにより作り上げられるのだと。
ですから育った環境の中で形作られてきたもの、最も多くあなたが反応しなければならなった姿・性質こそがあなたの個性となっている可能性が高いのです。
例えばおとなしい性格・個性として常態化しているあなたは、そうしなければ生きていけなかった、バランスが取れなかった理由が大きくあるということです。
そして、それは本当のあなたではなく、もっと言えば誰も本当の個である自分というものはいないのだとも考えられます。
いわばある空間と時間になじんだことによって、そこに落ち着く、反応するがごとくに個(個性)も発生したのだととらえることができます。
ではもともとの自分は本当にまったく何もないのかといえばそうではなく、やはり行き着くところは根源的な「一なるもの」「神」「宇宙」と呼ばれる究極存在と考えるのが妥当ではないかと思います。
神や仏の化身、アバターという言葉があるように、ひとつの根源からその場その場の状況、次元、フィールドに応じて形としてある種のものが生まれると想定すれば、私たち一人一人の個性もやはり大きな完全なるものからの化身と言えましょう。
ここにグノーシス的な考えに行き着くこともできるのです。
プリズムによってひとつの光が7色に派生するように、反対にたくさんのものを統合すればひとつのものにも還元されます。
それが自分のたくさんの人格や個を統合する意味や必要性でもあります。行き着くのは根源であり、完全であり、宇宙であり、神です。
壮大な話になってきましたが、もっと次元を低く実際的なことで言えば、私たちは自分と思っている個性も人からの反応で自分が作り上げてきた仮の個性かもしれないので、これからも作りかえていくことが可能だということです。
そしてこの個性はいわば波動と言いますか、ある種の回転とも言えるので、個性が変われば比率やスピードなどを変化させることにもつながり、運自体も変っていくことになります。
いわば人生を作り変えられるのです。
それはあなたの個性は実態がなく、逆に言えばすべてのものを含んでいるからです。
これらのことはマルセイユタロットの22枚のアルカナで整然と表現されていることなのです。だからこそ、タロットを使うことはこれらの人格を統合していくことにもつながるのです。
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