「神の家」と「審判」に共通する視点

タロットカードで、「神の家」(マルセイユ版)や「審判」と呼ばれるカードがあります。


私はこの二枚見ていると、ある共通するテーマを思い浮かべます。


それはやはり絵柄の特徴から出てくる事柄です。


マルセイユ版で「神の家」を見ますと、何よりも上から大きな光が降り注いできていることに注目できますし、一方の「審判」では、巨大な天使がラッパを吹いているのが目につきます。


そしてともに下方に目を移しますと、人間(のような存在)がいることもわかります。


ここから天と地、神と人の関係のようなものが想像できます。


言ってみれば、人からすると上を向く視線であり、視点です。


上に神や天使のような超越的な存在がおり、私たち人はそれを意識する必要があるのだということではないでしょうか。


人は時に、「神も仏もいるものか」と自暴自棄になることがあります。それは自分にとって不幸と思えることや、何も信じられなくなったような場合に生じがちです。


しかしながら、そのような時でも、神や天使は私たちを見ていると言えます。いや、むしろその事件や事態こそ試されるていることであり、実は恩恵であるかもしれないのです。


神とか天使といのうは、あくまで象徴です。実在感(リアリティ)を感じている人にとってはそのままの表現でもよいでしょうが、多くの人はそうではないでしょう。


ですから、自分にとって納得できる(リアリティのある)大きな存在を仮定すればよいのです。人にとってはご先祖ということもあるでしょうし、宇宙や天という表現を取る人もいるでしょう。


ただこの場合は通常で目に見える存在ということではなく、何か通常の人智では計り知ることの出来ない大宇宙の摂理のようなものと見るほうがいいでしょう。(場合によっては、親や上司というような、現実での目上の人を示す場合もあります)


また、こうも考えられます。


それは自分の神性であり、神聖な部分であり、また自分の中の高次の存在(ハイヤーセルフ)と呼ばれるもの、崇高な良心と言ってもいいでしょう。


ですから「神の家」や「審判」が出た時は、そうした高次の部分・存在から今の自分を観た場合、どう感じるか、どう思うか(思われるか)という、もう一人の客観的な自分(神や天使)の視点を意識することを思ってみるのです。


私たちが生きている中での人間や社会のルール、他人目線(人からどう見らるか)というものではなく、自分の純粋で高度な本質から眺めて、現在の自分はどうあるべきか、選択すべかということが示唆されていると考えるのです。(逆にいえば、自分の中に神性な部分を発見できるチャンスの事態が起きていると言えます)


その意味では、多数派の意見からはずれる決断もあるでしょうし、常識と思えることとは違う選択もあるでしょう。また楽でおいしい方向ではなく、あえて厳しい道に進むこともありえることなのです。


いつも神(天、高次の自分)からの視点を自分にもっていると、迷った時の判断に迷いがなくなってきますし、自分の生きる道も正されるでしょう。そして自らの使命のようなものもわかってくるかもしれません。


神視点を持つことで、「私は大いなるものに生かされている」という感謝と謙虚な気持ちが出てくることも大切かと思います。


「神の家」が「6」という数で「恋人」とつながっていること、さらにその「恋人」カードが、人と天使の状態が変化しながらも同じ絵柄の構図をもっている「審判」と関係していることがわかれば、さらに深い考察を得ることができます。

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