欲求をかなえて人類全体に寄与する。
「愚者」と「悪魔」を見ていて感じたことを書きたいと思います。
私たちは心にさまざまな欲求を抱えて生きています。
言葉としては、「感じたい」「味わいたい」「経験したい」「体験したい」「楽しみたい」・・・などと様々に表現できるものです。
これだけ情報の多い今の社会では、自分でも意識していなかった欲求(ニーズ)を刺激されることがあります。
物を売る商売などでは、この刺激を意図的にしていると言ってもいいくらいです。
時には欲求がないのに、あたかもあるように思わせる錯覚を起こさせることさえあります。
ただ今日はそのことを述べるのが目的ではありません。
むしろ欲求を刺激されることはよいこともあるという観点で話をします。
このように常に欲求刺激にさられさている私たちではあるのですが、欲求は言ってみれば満たされていない不満足感でもあります。
輪廻転生説や、多くの人の意識が過去・現在・未来に複合されて一人の魂に記憶として刻印されているという説を採れば、それだけ人類の欲求が一人一人に記憶されているとも考えられます。
実は心理的にも、人はある程度欲求が満たされないと高い目標や次元に進もうとしない、あるいは進めないことを言われることがあります。
満たされない不満足感がくすぶり、低次の段階に自分が留まってしまうのですね。
これを先の人類全体(の記憶)に当てはめるとすれば、一人一人が自分の欲求を満たすことによって、全体としても次元が上がっていく可能性が高まるということになります。
そこで、くすぶっていた人類の集合的な意識による欲求があぶり出されると考えれば、欲求を刺激されることも決して悪いことではないと思えてきます。
また現代はよいことに、交通機関も情報もすばらしく発達し、行きたいと自分が思えばたいていはその場所へ行ける時代にもなりましたし、体験したいことがあれば、昔とは違い、格段にあらゆることが簡単に体験できる世の中になっています。
遠い昔のあなたが、「鳥のように空を飛んで上から町を見たかった」と思いながらも時代的に叶わずの記憶が、今のあなたなら飛行機に乗って見ることが可能になって欲求を満たしていると言えます。
とすれば、かなりの過去のカルマ的欲求は減少していっているとも推測できます。全体の魂が軽くなっている可能性もありますね。
だからといって欲求のために好き勝手していいというわけではなく、広い視点から見れば、自分の欲求を満たすことで、他人や大勢の欲求をかなえることに害していたのなら、むしろその人はマイナスをしていることになります。
ですから逆に、全体から見てプラスになる自分の欲求をかなえることは、どんどん積極的にしていけばよいのではないかと思います。
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