正義の女神

ある本を読んでいますと印象的な文書が目に入って来ました。

それは「「正しく生きるより、幸せに生きることを心がける

というものです。

これはタロットでいえば「正義」と「世界」の問題とも言えましょう。

とかく私たちは自分が正しいことにこだわります。人間だけではなく、組織や団体、宗教・国までもがそれに固執しているように見えます。

正しさにこだわる時、同時にそれは正しくないことが想定されます。正しくないと思うことがあるので、正しさの主張ができるわけです。

ということはふたつの正義・不正義という概念によっていつも支配されることになります。たとえ自分にとってあることが正しいと証明できたとしても、次にはまた自分の信念が増えるたびにそれが正しいことを証さないといけなくなり、きりがありません

そもそも正しさを希求するということは、結局自分が間違っていないという安心感を手に入れるためのものであると考えられます。

では安心を得たいということはどういうことかと分析しますと、これも自分が不安にならないことであって、最終的には幸せであることを求めていると言えるのではないでしょうか。

幸せというのは短絡的には満足感とつながっています。そのため「正義」はまったく反対の「悪魔」とも大きく関係しているのです。

いわば心の充足感がいつも得られていれば、正義にこだわることも少なくなってくると想像できます。

よって、冒頭の文をご紹介したように、私たちは正しいことを証明しようとするよりも、いかに自分が落ち着き、安心し、満足感を得て幸せを感じられるかを追求したほうが人生の価値は向上するのではないかと思えるのです。

では正しさを求めるのはいけないのかというとそうではありません。

数学にも正解があるように、ある局面・フィールド・状況では正しいものはあると思います。正しさを追求しようとするので、科学や文明・知識も発達するわけです。

しかしなか゜ら、数学的な万人に共通する「解」とは別に、人の、特に心の分野では様々な「解答」があります

ここが人間同士(人が係わる場合)において、「正しさ」を求めようとすると問題になる原因だと考えられます。

人によって価値観が異なるので、その人にとって正しいことはほかの誰かにとっては正しくないことは山ほど出てくるわけです。

ここからしても、人との間には正しさを追求していくのは大変であることが理解できます。ではどうすればよいのかということですが、正しさを追求することはゲームだと思えばいいということです。

自尊心を得るためや主張を押し通すことに正義を使うのではなく、正しいことがいろいろとある、各人正しいと思うことがあるという「考え」を浮かび上がらせるために、ゲーム的に正しさ証明を楽しんでやってみるという態度でしょうか。

これが正義を幸せになるために使う方法かもしれません。

実は正しいことを純粋に追い求めていると、ある時から別の観点・今までとは違う正しさのようなものが自分の中で生まれてきます。

以前にも書きましたが、相手との正義争いによって、融合点や調和点が生み出されてくるからです。

本当は正義は自分を救い、自分の枠に気づかせてくれる恩恵であり「女神」なのです。古代ギリシアで徳として「正義」が語られていたのもうなずけます。

正義を追い求めながらでも「幸せに生きる」という観点を忘れずにいれば、「正義」もあなたの天使になってくれるでしょう。

コメント

  1. ありのまま より:

    私は異性から、どうみられているか?とタロットカードを引くと、必ずといっていいほど、「正義」のカードが出ます。
    自分の正しさだけでなく相手の正しさも受け入れられるようになりたいと思いました。

  2. >ありのままさん
    そうですね、相手の正しさを見て受け入れられるということも大切かもしれません。
    また正義が出ているのですから相手からはまさに正しく見られている、過少でも過大でもなく、そのままの評価で見られていると思ってもいいのではないでしょうか。

  3. ありのまま より:

    >タロット講師 宮岡和宏さん
    それは嬉しいです♪
    それは思いつきませんでした。
    ありのままの等身大の私をみてくれてるかもですね☆ありがとうございます。

  4. >ありのままさん
    タロットは象徴ですからいろいろな解釈がてきます。正解はひとつではないのです。

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