私たちは愚か者である。

この前、郵便局にいた時、ある光景を見ました。


それはこのシーズンならではというか、年賀状を買いに来た人の話で、どうやらその人は去年の書き損じの年賀状を持参し、新しい年賀状に交換してくれと頼んでいるようでした。


この時点ですでにほとんどの人は気がついていると思いますが、それは無理な話です。


一応説明しておくと、今年(来年元日に届く)の年賀状ならば書き損じ手数料を払えば新品に交換できますが、去年のものは年賀状についている「くじ」がもう当選発表されていますので、新しく交換できることを認めてしまうと、くじの部分で不公平となるわけです。書き損じはまずはずれているくじですからね。(ですから「くじ」のない通常のはがきならばOKです)


局員は丁寧にそのことを説明していたのですが、お客さんは「民営化されたのにサービスが悪い!」と見当はずれのことで怒鳴り散らしていました。


私のように端から見ている者からすれば、このお客さんは何を怒っているのだ?といぶかしく思うでしょう。


しかし、人は結構冷静になればわかることでも、感情が入りすぎたり、先に「なになにありき」という自分の正しさを主張する姿勢で構えていたりしますと、まったく周囲から見て「愚者」となってしまうことがあります。


タロットでも「愚者」という名前を持つカードがあります。


一方、すべてにおいて完成した状態、いわば神なる人間となったのが「世界」と言われるカードです。ということはある意味、「世界」のカードは完全なる智慧を持ち、賢者中の賢者となります。(神ですから)


マルセイユタロットの教えでは、人はもともとこの「神」あるいは「神なる性質」を有した完全なる存在だと伝えられています。


それを思い出すのが「愚者」の旅でもあるのです。


私たちは自分の思いや考えによってある部分固まり、こだわり、本当の自分を観ようとしていません。


先に述べた郵便局に来たお客さんも、きっと自分の仕事や平静にいる状態の時は、理知的な判断を下していることでしょう。ところが、この場合は周囲からすれば「変わった人」「理解してない人」というように見られることになるのです。


人は元来賢者のはずです。また人生において生まれたときから様々な学びをしています。


どんな人も今は日本では義務教育が行われ、インターネットなど情報化社会の発達で、学ぶことは大量に自由にできる時代になっています。


それだけ賢くなっているはずなのです。


しかしながら、時に人は「愚者」となってしまうのは、自分の知的な部分とは別の体や精神に支配されてしまうからです。


実のところ、その部分で人は生きようとさせられているところがあります。これが目に見えない部分だけに少しやっかいです。


その状態で生き「させられている」人は奴隷と言ってもいいです。


ですがほとんどの人は自覚がないため、ある衝動やその衝動を生み出す別の体によって奴隷の人生・牢獄的な人生を歩んでいることになります。


このことに気がつき、一度リセットして進み出すと、それはまた奴隷人生にいる人(自覚や意志のない通常の惰性の人)からすれば逆に「愚か者」として見られるようになります。


タロットにおける「愚者」は、この、ほかの奴隷人生の人から見ての「愚者」の意味を原義的には含んでいると考えられます。


つまり、ソクラテスが説いたような「無知であることを自覚している者のほうが、それを知っていない者よりも智慧者である」ということに類することだと考えられます。


ということは「愚者」は愚者であって愚か者ではないということになります。


タロットカードは私たちをこの意味での「愚者」とし、神に至ることをほかのカードを通して気付いていく作業でもあるのです。


私たちを奴隷としてオートマチックに生活させてしまう人生のからくりや仕組みに気付き、そこから脱する意識的な歩みをしていくことをサポートしていくことも、タロットの目的のひとつなのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Top