記憶外の記憶。

先週金曜から土曜にかけて、こっそりと(笑)東京に行っておりました。


東京の生徒さんのアフターフォローや、私自身のインプット(学び)、調整などのためです。


私は関西、大阪・京都・神戸(自分で「タロット三都物語」(^^;)と言っています)を中心に活動していますが、時には奈良や四国方面にも呼ばれて出かけることがあります。


そしてスカイプ講座もしておりますので、数は多くありませんが少しずつ遠方の受講生さんも増えています。(あ、ちなみに少しですが、来年1月からのスカイプ枠があります。遠方で希望される方はお問い合せください)


関西の人に対してはアフターフォローや勉強会もできるのですが、遠方となりますと難しくなります。


でも遠方の人もご縁があり、学んでもらえたこともありますので、全員が全員とは行かないですが、なるべく実際にお会いして、アフターフォローも含めてタロットを中心に語り合いたいと考えています。


私は受講生の個性、自由性を尊重しながらも、人として、人間としてのおつきあいも重視しているのです。もちろんそういうものはいらないという人、ただ技術だけを学びたいという人もそれはそれでOKです。


さて私が東京へ行くと思うのですが、人の記憶は忘れているようで、どこかに覚えているものがあるものだという感覚です。


実は私は幼少の頃、東京に一年ほどいたことがあります。とはいえ、ほとんど実際の記憶はありません。断片的にシーンのように思い出すことがあるという程度です。


現実的には何も覚えていないと言ったほうがよいのですが、不思議と空気といいますか、どこか懐かしさや既視感を感じることがあるのです。時々関東の方のクライアントや講座の受講生の方とご縁が深くなるのも、そうしたことがあるのかもしれません。


こうしたことを思うと、私たちは忘れてしまっているようでも、どこかの記憶庫(脳だけとは限りません)に経験したこと、体験したことは必ず保持されており、その影響も皆無ではないと言えるのではないでしょうか。


これは学習でも同様かもしれません。何気なく読んだ本や覚えようとしていなかった事柄でも記憶には入っており、それが何かの刺激で現れてくるということです。


自分には意識がありませんから、それが不思議であったり、シンクロのように感じたり、インスピレーションのように思ったりすることもあるでしょう。


ひらめきの正体は実はこれが多いのかもしれません。つまり、すでに知っていることを何かのきっかけで思い出したということです。


そのきっかけとなるのは、同質のこと、あるいはまったく逆の異質なものでのことが多いと感じます。


ですから、「何か自分にとって強く感じる」というものはそれなりに意味があり、似たようなものや事柄、場所を経験済みのことが隠されていて、それを思い出すために刺激として再度今の現実の事件を経験しているのかもしれないのです。


私もこう書きながら、幼少期の東京での大事なことが次第に思い出されてきました。


それは実に今とつながっていたことなのです。それはまたいつかお話しましょう。

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