「女帝」と「皇帝」との関係

マルセイユタロットに、「女帝」と「皇帝」というカードがあります。


この二枚はペアでカップルとも言えます。実際、夫婦やパートナー同士を象徴することもあります。


しかしもっとも原義的には「創造」における精神と現実の組み合わせ・ペアを表していると見えます。


難しくいえばイデアと現実の対応・照応なのですが、簡単に言えば思考の現実化と言ってもいいでしょう。


ただその思考はイデアであることが大切なのです。


イデアとは哲学者プラトンによる言葉で、後世の解釈も様々ですが、ひとまずここでは、「心で思える最高度のもの、その世界」と表現しておきましょう。


良い(善い)ものを思えば良い(善い)ものが形として現れる、その関係が「女帝」と「皇帝」であると言及できます。


ただ実際の世界(現実)に現れるのは、思ったこととは多少違うのが当たり前です。


それは現実ではイデアは反映されても、実際の制約条件により、そっくりそのまま同じものにはならないからです。


とはいえ「思う」ということがないことには、実際に現れることもできないことになりますし、思いやイメージが不明確であればあるほど、実際の現れるものも混沌としたものになる道理がわかるかと思います。


ということは、いかに思い・思考・イメージが大切であるかということですが、実のところ、人はそもそも何を思えばよいのかということがわからなくなって悩むものです。


この先私はどうすればよいのか?と悩む。


それはつまるところ先見ができない、イメージができないことに問題があります。


なぜイメージができないのかといえば、いきなり「皇帝」の作業から入ろうとしているからです。それは具体・形・現実の結果を探そうとしているのです。


現実に何を残せばいいのか、何を創造すればいいのか、それはよほどやりたいことや自分の意志が明確になっている人以外は、普通は難しいものです。


どの仕事をすればよいのかと悩むのは、実際で具体的な仕事をしていることのイメージが自分にできないからで、それはいわば具体(形)を思ってしまうと「決まってしまう」「限定される」ことへの恐れでもあるからです。


「まだ私には可能性があるのではないか?」「それが本当に望んでいるものではないのかもしれない・・・」という期待と不安、恐れが入り交じって、具体的なものをイメージするのが恐くなってしまう(避けようとする)のです。


これを解決するには、やはり「女帝」から入ることです。


「女帝」はイデアを見ると述べました。


イデアは精神や心で思う最高度のものですから、具体的ではなく抽象的です。


ここではっきりと現実や形にまだ限定しなくてもよいのです。


ただ次元の低いものはイデアではありませんから、理想的なもの、最高のものを思うようにするのです。


それは漠然と「こうなりたい」とか「こういう気分でいたい」とかということからでも構いません。


ですが、そうした自分一人で思おうとする行為は、いろいろな次元やレベルが入り交じり、結局イデアにたどり着けない場合があります。


そこで古代から人は最高で整然とした宇宙とか神とかを想定し、その動きや象徴を図形や天体の動きに反映させて見てきたのです。


マルセイユタロットはそのイデアに関連した図柄を記していると考えられます。


ですからマルセイユタロットでもって、イデアを思い、目標や夢を次第に現実に段階的に下ろしていく(地上化する)ことが可能になるのです。


イデアを思いながら、「皇帝」として現実に進んでいくと、やがてこの実際の世界に実現すべき自分のイデアがわかってきます。


イデアの地上的表現、つまり「女帝」の皇帝化は先述したように、そのまま理想が現実になることではありません。


最高の心の想像(創造でもある)が、この現実世界での材料を得て、個別・具体としてそれぞれに応じて実現されるのです。


その意味では、すでにあなたは大なり小なりイデアを地上にもたらしていると言えましょう。


あとは再びイデアを思い、地上における表現方法を変えたり、選択し直したり、洗練させたりして、イデアに近づける努力をすることなのです。

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