恋愛体験の意味するところ。
このところ、去年からちらほらと恋愛の相談であったり、恋愛の話を聞いたりすることがありました。
そこで久々に恋愛の話を書きたいと思います。
まず皆さんにお話しておきたいのは、恋愛は体験自体が実は大きな自己変容のチャンスでもあるということです。
マルセイユタロットで恋愛をもっとも示唆するカードは「恋人」だといえますが、まさにこのカード一枚で恋愛におけるほとんどのことが描かれていると言っても過言ではないカードです。
しかし一枚だけではなく、さらにほかのカードとの関連を見ていくと、さらに恋愛が理解できます。
たとえばカモワン流では「タロットマンダラ」と呼ばれ、その他でも3段7列の大アルカナ構成図として示されているものになりますと、「恋人」の縦の列には「13」と「審判」がならび、このラインには単純に言っても「恋」から「愛」に変わる過程が見えてきます。(もちろんほかにもいろいろ意味が見てとれます)
また特に個人的には、「恋人」は「運命の輪」や「神の家」とのつながりが強いと思っており、たとえば恋によって運命が変わったり、よく「運命の人」と表現されたりするように「運命」と「恋愛」は古今東西、よく掲げられるテーマでもあります。
話を戻しますが、つまりは恋愛にはいろいろな要素があるということであり、取りも直さず、それは自己(あるいは相手・他者)の変容に関わってくるのだということが言いたいわけです。
ということは体験・経験自体が非常に大切で、もちろん恋の成否や成就することに関心が行くのは人として当たり前なのですが、もうひとつ、「体験自体が重要」という意識を持っておくと、たとえ恋がうまく行かなかったとしても、恋に人生を狂わされずにすむことができるでしょう。
それから恋愛はこのように自己に変化・変容体験をもたらすものの一方、自分にある欲求や快楽志向も刺激します。
つまり言ってみれば恋愛は高次の自分に変わることもあれば、低次の自我を肥大化させることもあるという両刃の剣なのです。(このため、「恋人」カードではキューピッドが矢をつがえています。この矢の意味はほかにも多くあります)
そしてこの低次の部分がとても商業的に結びつきやすく、ほとんどの人は恋愛を外からのもので定義され、必要以上に恋愛に駆り立てられる社会に現代はなっているといえます。
従って、かなりの部分、多くの人が恋愛が低次(たとえば物欲・性欲・支配独占欲・名誉欲)なものに変化してしまうのです。簡単にいえば、自分の低次(の欲求)を恋愛の相手に求めるようになるということです。
とはいえ、低次が悪いわけではないのです。実はここは人にとってもっとも基本となる土台にも相当するところなのです。これが満たされないと次に進むことができないというものです。
ですがこられをすべて恋愛による相手によって奪おう、もらおうとするとバランスが崩れます。
ですから恋愛だけですべてを満足させようとするのではなく(両者が調和した恋愛ではできないこともないのですが)、ほかの部分でも低次の欲求を満たし、解消させていく必要が求められるのです。
おおむね年齢によって恋愛の様子や内容は変わると言われますが、これは必ずしもそうではなく、個人の欲求の次元の充溢・克服度合いによって年齢に関係なく変化していくものです。
ですから自分、あるいはその人の恋愛スタイルをみれば、何を望み、どの段階にいるのかということも明白になってくるという、恋愛は実に人の到達している次元を計測するうえでの装置でもあるのです。
なんだか難しい話になってきましたが、最初にも言いましたように、恋愛は自分を大きく変えるチャンス・機会なのです。
また望んで恋愛がやってくるわけでもありませんので、ある意味、恋をしたということは神・天からの恩恵を与えられたと思い(キューピットは天使でもあり、神でもあります)、苦しくともまた楽しくとも感謝の念を持つと、その恋愛がタロットカード的に言いますと、「審判」に昇華されることも起きやすくなるでしょう。
恋愛についてはもっとお話ししたいことはいろいろとあるのですが、詳細は今年開催予定のセブンスウィルの「恋愛講座」で語りたいと思います。(^^;)
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