こだわりはなかなか捨てられないものなので
世の中、こだわりを持つことはいいことのように解釈されることが多くなりました。
もちろん私も職人さんや料理人のこだわりによる作品、その他数々のこだわり商品などはとてもよいものだと感じております。
ところがそもそも「こだわり」という言葉は悪い意味でのことが多く、本来気にしなくてもよいことを気にしてしまったり、執着したりすることで使われていたようです。
それが反対にいいことにこだわるという意味になり、品質にこだわるなど、現在ではむしろよいことで使用されていますね。
しかし、ここでまた昔の意味に戻ってみるのも面白いかと思います。
マルセイユタロットの「愚者」と「13」などを見ますと、本当にそれを感じさせます。
「愚者」は細かいことを気にせず、どんどんと次へ移り変わる人であり、「13」はその絵柄からもわかるように、無駄なものをそぎ落としている段階でもあります。
私たちは結局、こだわることで次のステップや段階、果ては自由になることさえ放棄していることもあるように思います。
こだわりがあるのも、それを失うことへの恐怖や不安があり、それは自分が失うこともあれば人から奪われることもあるという恐れが存在しています。
そこでよく言われることが、愛や全体性(大いなるもの)への回帰、視点の変換による自身の変化なのですが、それはいきなりできるものではなく、案外と最初は難しいものです。
なぜならば、失いたくない思いの底には、人間の基本的な欲求や生存の土台に関わるものが潜んでいるからです。
人から見ればなぜそんなことにこだわるの?と思えることでも、その人にとっては生死に匹敵するほどの価値がその時にはあるのです。少なくともそう感じています。
これを無視して上から目線で「こだわりを捨てて楽に生きれば?」「それを捨てなさいよ!」と言ったところで、それが簡単ににできないから困っているわけで、当人はますます苦しむことになります。
前にも書きましたが、「あなたにはできても、私にはできない」と当人は思うのです。
タロットでいえば、「愚者」は「愚者」だからこそ軽々と移行できるのであって、現実的にそこで生活し、生きている私たちには「愚者」のように身軽に無宿のような旅はできないのだという思いです。
そこで段階や次元による歩み(ステップ)が必要となってきます。いわば一歩ずつの訓練です。
「それを失っても大丈夫である」「実は失ってはないのだ」と気づくためには、その次元やフィールドでの小さな成功体験が必要です。
たとえば服を全部失えば困るわけですが、不必要なものから捨てることはありでしょう。この場合、ちょっと惜しいと思うことから始めていくとよいのです。
つまりはほんの少しの自分の現状の殻を破っていくというステップです。これが「愚者」や「13」の実際的(現実的スモールステップ)作業になり、小さな「戦車」としての成功体験にもなります。
すると最終的には自分にとって服などどうでもによいのだという境地(ただし服がいらないとか、服装に気を遣わないということではなく、本当の自分に必要なものや様式がわかるということです)に至ると推測されます。失うのではなく、変容するだけです。
こうしたことには非常にタロットは有効です。
なぜならば私たちはいきなり「愚者」的人間にはなれませんが、自分の中に「愚者」がいることを発見することは可能だからです。
そのことをカードを通して象徴的に実感することになり、エネルギーとしてもたとえば自分の中の「愚者」が発動することにもなるからです。
私たちはとかくすでに「愚者」になっているような、あるいはもともと「愚者」のような気質でいっぱいの人からアドバイスされがちです。そのためにそうなれないことに、逆に苦しくなることがあります。
しかしタロットの場合は少しずつ自分自身で認めていくことができますので、ある意味楽でもあります。こうしてタロットはその活用度が広がります。
何度も言うようですが、タロットは占いだけに使うのはとてももったいないことなのです。
タロットに出会う前に、ある事情で、大事にしてた物を、手放しました。勇気は要りましたが、実際に手放してみると、どうってことなかった事を、覚えています(笑)
結局のところ、「命」まで取られるわけでは、ないですから。
>3と21のタロットリーダー☆しょういちさん
そうですね、命のことを思えば、それ以外はたいていは捨てることができるものですね。それができないのが人間の面白いところでもあり、問題となるところもありますね。