捨てられないモノにあるもの。
先日、妻が面白いことを言っておりました。
「モノが捨てられないのは、それがモノではなく、そこに思い出があるからかも」と。
物が溜まって捨てられないことを正当化する言葉のようにも聞こえましたが(^_^;)、「なるほど」と思わされる部分もありました。
唯心論(心がすべてである立場)的に考えますと、モノにも心があり、その心はそのモノ自体が持っているのではなく、私たちの意識や思考にあると見ますと、捨てられないモノというものは、ただの物質ではないのでしょう。
そうして物がモノではなく、ひとつの自分の心となってしまった場合、確かに簡単に捨てるようなことはできなくなって、やがてモノに囲まれることになるのかもしれません。
しかしながら、普段は物置かどこかにしまわれているわけで、いつもいつもその品を見て、その品にまつわるスートリーを思い出しているわけでもないでしょう。
引っ越しや大掃除などで荷物を整理しなければならなくなった時も、今まで忘れていた写真や品物が出てきて、急に思い出に浸るようなケースもあります。これなどは、よく歌の歌詞や映画の一シーンなどで使われるものですよね。
結局のところ、そのモノが契機となり、自分のしまっていた記憶の扉を開ける作用があるということです。モノはきっかけやスイッチに過ぎないことになります。
記憶を取り出すスイッチとして考えるのなら、モノを写真に撮って、それこそ「アルバム」として整理しておく方法もあるでしょう。そうすればずいぶん物理的スペースは空くはずです。
とはいえ、それがモノとして現物そのままであることに意味がある場合も少なくありません。手触りや質感、匂い・・・これらが人間の記憶をさらにリアルに再現させるのでしょう。スイッチ効果が高いということです。
けれども、やはりいちいち思い出の品を保管していたのではキリがありませんし、思い出したくないモノもあるはずです。
少し懐かしい気分になるくらいならばよいでしょうが、あまりにも過去や思い出にこだわるのは、執着となって「今」と「これから」に力を入れることができなくなります。
ある程度の切替や断ち切りも時には必要です。新しいものが入るためには古いモノを捨て去る決意がいるのです。
また今は映像や絵として記録することはも可能であり、しかも大容量で収めることができます。また人は忘れているのではなく、思い出すことができないだけであると考えるのなら、思い出せる力を養うこともありでしょう。
先述したように保管するモノにこだわるのは、それにある価値を自分が仮託しているためです。
いわばモノに心が入っているということなので、そのモノに入っている心を再び回収すればよいのです。
そのモノを手にし、自分の心の箱に再度しまい込む儀式を行ってもよいでしょう。魂を抜く行為です。供養でもあります。そうしないといつまでも倉庫で亡霊(あなたの入れた心)がさまようことにもなります。
タロットを習った方は、この思い出をタロットに置いておくということもできます。別にカードに記憶を保管するのではなく、カードの象徴を通して思い出しやすくするということであり、思い出自体はあなたの心の中にあるものです。
ですからカードを捨てても、新しい同じ絵柄のカードがあれば思い出すことができますし、たとえカードがなくてもカードの象徴が心にある限り、記憶を想起することは可能なのです。
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