感情の考察、感情のスーパーな働き。
究極的には人間の頭で考える理屈のようなものは矮小で、取るに足らないものかもしれません。
よく宇宙の本質を知ると思考はふっ飛び、感覚的になって愛だけ感じるものだと言いますが、本当にそうなのでしょうね。
いきなりドーンとそこまでたどり着ければいいのですが、思考を重ねていく方法もあると思っています。
思考を積み重ねると、ある時それを凌駕した気づきや発想が衝撃のように入ってきます。でもそれは思考を繰り返してきたからこそ訪れたものだと理解しています。
それはさておき、そうして私たち人間のことを常日頃私自身も「思考」しているのですが(^_^;)、今の段階で強く思うのは、やはりすべてのことには理由があり、人間の反応(感情の発生)にも理屈があるのではないかということです。
もちろん身体の機能を維持するための生体反応という面もあるでしょうが、それ以外の理由もあると想像しています。
そこで、なぜ人間にはいろいろな感情が起こるのかということを取り上げてみたいと思います。
現代では、この感情を分析したり、見つめたり、時にはコントロールしようとしたりする学びや説もありますが、それはそれで大事かもしれませんが、私は感情が起こるという仕組み自体がとても重要ではないかと考えています。
一般的には感情については、心理や内面の部分に光を当て、自己観察や自己成長につなげていくということが多いのですが、私は感情そのものを、ひとつの霊的な成長の貴重なエネルギー材料としてとらえているのです。
私たちが人生において人間関係や仕事なりで、いつも気持ちや感情を揺り動かされる状況にいるのは理由があるからと考えるのです。ある意味、感情を起こすのが人生・人間の目的と言ってもいいくらいです。
ところで「喜怒哀楽」で表現される感情の波は、どんな時に起伏が激しくなると思いますか?
そう、日常よりも刺激的でインパクトが強い場合がほとんどです。感情を起こすことが人の目的ならば、穏やかに生きるより、起伏ある人生を送ったほうがよいことになります。
えっ、それではまるで一般的に言われていることと逆ではないかと思うでしょう。
ここからが非常に大切なのですが、感情を起こすと言っても、ただ感情に飲まれるだけではあまり意味がないのです。
むしろそれでは心身を痛めることもあって、逆効果のこともあります。
ここで感情のエネルギーを電気のように見るとわかりやすいかもしれません。電流が強いと感電してしまい自分も痛みますが、これをうまく取り入れることができれば大きな発電のエネルギーになります。
また電気を発生したり強くしたりするには、抵抗や刺激が必要であり、それが人生における様々な自分にとっての事件となります。
普通は大きな刺激や抵抗がないと強いエネルギーは発生しないのですが、おそらく感情をそのまま味わうことができると、刺激が弱くても大きなエネルギーが流れることになるのではないかと推測されます。
つまり理想としては、一見穏やかに見えていても内面では大きな変化を体験しているというような状態です。(マルセイユタロットでは「隠者」です) 日常の純粋体験と言ってもいいでしょう。
これができれば、特別な強い刺激、いわば強烈な自分にとっての事件(いいことであればよいのですが、悪いこともあります)は不必要となります。
一般的にはそれができないので(意識することもないので)、喜怒哀楽を起こす強いことを経験せざるを得ないのです。
しかも体験が強ければ先述したように感電する危険性もありますので、自己変容のチャンスとしては紙一重であり、うまく行くかいかないも偶然に任せられていて(本人の気づきによる)、まさに天国地獄の表裏一体の様相だと言えます。
ということで、できるだけ自分の感情を日常的に客観的に味わう姿勢を持つのがよいと思います。
と同時に、平穏無事にという守りの気持ちになるのではなく、やはり新しいことや未体験のことを経験する好奇心とチャレンジ精神を常に持ち続けることも大切です。
私たちは感情を味わうために生まれてきていると思えば、人生の視点と生き方もまた変わってくるでしょう。
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