時間の中に潜む「悪魔」
皆さんの中には、「もっと時間があれば何でもできるのに・・・」と思っている方がいらっしゃるかもしれません。
時間というものは規則的に万人に等しく流れるものと、個人の感覚で流れていくものがありますので、意外にもその両者のズレや葛藤によって、悪魔的なところが時間に存在するようになるのです。
そのほかにも、この世の制約や条件として時間があると考えれば、やはり悪魔と時間はつながってきます。
マルセイユタロットを見ていますと、時間を象徴的に表す「運命の輪」のカードと、その名の通りの「悪魔」のカードが共通している部分があることに気がつきます。(絵柄や意味などにおいて)
この二枚は本当に面白い関連があり、ともに相当なパワーを有します。
それはさておき、時間と悪魔の関係ですが、記事の冒頭に書いたことは、実はこの関係について考えてもらうためのものなのです。
個人的な経験でいうと、私はかなりの多忙期とものすごく暇な日々を過ごした時と、どちらも結構経験しています。
おそらく皆さんの人生においても多忙な時と暇な時の両方は、程度の差こそあれ、経験済みでしょう。
そこで振り返っていただきたいのですが、暇な時というのはあまり記憶も少なく、ただ惰性的に時間が流れてしまったのではないでしょうか。
もちろん、暇ではあっても自由がない場合は、逆に多忙よりも苦痛で、時間は惰性的というよりまったく動かないかのような静止した時のように感じられます。
ここでいう暇な時とは、「比較的何をしてもよい状態で時間がかなりある」という状況のことを指しています。
私の場合、やはり暇な時は無為に時間が流れてしまった印象が強いです。これは時間があるからこそ、甘えや油断になり、かえって何もできなくなるという状況に陥るからです。
人は必要に迫られたり、追いつめらられたりしないと、案外行動しないものです。
人間には「今の状態を変えたくない」という欲求にも似た心が存在します。キリスト教用語の「7つの大罪」ひとつ、「怠惰」に関連するとも言えます。
しかし罪というより、人の安定機能、ホメオスタシス(外部状況が変化しても生体の状態は一定に保つ機能)のようなものが反応しているようにも感じます。これを思うと、暇な時に無為に過ごすこと自体を悔やむ罪悪感のほうが問題に見えます。
時間の幻想(多くあると思うこと)によって、私たちは一種の固定化や縛られた状態を経験し、それは一見自由で楽しいように見えて、何もできない空白の時空に閉じこめられているようなものになっています。
時間を無駄にしてしまったという罪悪感と、たくさんあることへの油断から来る時間幻想の縛りから逃れるためには、やはりマルセイユタロットの「運命の輪」と「悪魔」を観察することです。
簡単にいえば自分自身をスフィンクスにし、悪魔という仮定した存在を認識することです。
実際の行動でいえば、時間があり暇な時であることそのものを自覚しながら、本当にその時を楽んでしまうこと(悪魔にだまされるふりをすること)になります。何をすべきか、何をしたのかなどは考えないことです。
また無為に過ごしたり、無駄に過ごしたりすることに罪の意識を覚えず、こういう周期・波の中にいると認識し、いずれはまた多忙の時がやってくることを想定することです。
ヒントはさらに「運命の輪」「悪魔」の隣の数(両隣)を持つカード群にもあります。皆様ご自身で考えてみてください。
コメントを残す