「私はスピ系とは違います」と言う人。
スピリチュアルという言葉が結構一般的になるにつれ、この言葉自体もいろいろな概念で書かれたり、語られるようになりました。
と言っても、今日はその定義のお話ではありません。
実は、スピリチュアルや精神世界系のことに関心がある人の中で、「私はいわゆるスピ系と呼ばれる人たちとは違う」とか、「よくスピ系の人が○○と言ってますが、私は違います」という表記を見ることがあります。
これって、どう思いますか。
私自身も同様の表現をしたことがあるので、反省の意味を込めて書きますが、かなり傲慢にも聞こえてきませんか。
たぶん「私はいい加減なことを言ったり、スピリチュアルに傾倒してふわふわな感じで現実を見なかったりする人ではありません」と言いたいのでしょうが、スピリチュアルなことに関心があるという意味ではあなたも同じです。
そしてスピリチュアルなことに興味を抱いている人は、競争や差別化を嫌い、共有化、和合といった志向(思考でもあります)を好み、一言で言えば「愛」ということを重んじます。
であるならば、なぜ「私はスピ系とは違う」という「違う」という言葉を強調するのでしょうか。
本当にあなたは自分の言う「スピ系」の人とは「違い」、バランスが取れていて、進んでいる人なのでしょうか?
確かに、人によっては明らかに何かに傾きすぎていて、バランスを見失っているという時があります。
精神世界と現実・現象面という二極であえて分けた場合、精神方向に極端に比重をかけている人もいれば、現実・実際面に重きを置いている人もいます。
ここは難しいところですが、そのバランスというものは結局自分が見た場合のバランス評価であって、本当にその人自身のバランスが崩れているのかどうかは、病的な状態でもなっていない限り、判断はしづらいものです。
そしてあなたが、「あの人は精神と現実のバランスを崩している」と見たとしても、もしかすると大きな(宇宙的な意味)では、バランスが取れているかもしれないのです。
あなたの見ている他人は、その人のほんの一部でしかないからです。
いつも精神世界の話をばかりして仕事もしていないと思われている人でも、実は家では必死に親の介護をしていて、今仕事ができる状態ではなく、そのような現実とのバランスを取るために、あなたと会っている時は精神世界の話ばかりしているのかもしれないのです。
「自分は違う」と言い方をすることが悪いと言っているのではありません。
また「スピ系」という言葉で、批判することがまずいということでもありません。
そういう言葉が出ることも、あなた自身が全体のバランス要因となっていることもあるからです。
全体のバランス要因とは、過度にどちらかに傾いている状態を修正するために、あなた自身がその役割の一人となって、知らず知らずに役を演じているということです。(あなたも全体世界の中の大切な一人であるということ)
また自身の自戒(そうなりたくないという思い)を込めている場合もあるでしょうし、よかれと思って警告や忠告の意味で書いている時もあるでしょう。(実際に、霊的な世界をいい加減に扱い、想うことは危険でもあります)
ですが、ふと自分の発した(書いた)言葉を見直し、あなたが関心を寄せているスピリチュアルというものと、およそかけ離れた心と態度になっていないかを確認することも、また大切なことだと感じます。
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