特別な機会と日常の機会のバランス

一昨日の記事の続きです。
この前の「特別な機会と場所による効果の理由」 の最後の方で、「過度な期待や依存も問題」という一文をを私は書いています。
普段とは違った場所や機会では、確かにある種の高い変容効果が期待できるのですが、劇薬にも副作用があるように、それに過剰な望みをかけるようなことは自分のバランスを崩す恐れがあります。
つまり、簡単にいえば、あるセミナーや特別な場所に行きさえすれば「今の問題は絶対何とかなる」「きっと私は変わる!」というようなあせり・幻想にとらわれていないかを確認することが大切なのです。
仕事や家庭をほっちらかし、借金してでも参加しようという人、混乱の極みのままで、とにかく列車に飛び乗るかのごとく救いを求めて後先顧みず行ってしまう人・・・
その奥底には依存精神、人任せの気持ちがあります。(他人に手助けしてもらうことは悪いわけではありません。自分の力をまったく他者にゆだねてしまうことが問題なのです)
自分の行うことは自分で責任を取ると決めないと、何かに気付いても、どこかに参加しても、本当の意味での変化はないのです。
またまれにあることですが、「特別」ということは、自分(自分自身)が「特別」であると誤解してしまい、このようなセミナーを受けることのできる自分、特別な場所に来ることができる自分に酔ってしまうことがあります。
いわば、選民思想みたいな囚われです。
自分は使命がある、神や天使から選ばれている、機会に恵まれている(参加するお金と時間のある)私は特別な人間・・・という傲慢にも似た考えになっているのですね。
特別な機会をとらえることは、確かに特別な変化をもたらす可能性がありますが、必ずしも効果があるとは言えませんし、期待したほどでないことも結構あります。
帰ってから冷静になると、「なんであんなものに自分は参加したのだろう・・・」と後悔することもあります。
無料ならばまだよいですが、ほとんどの場合は「特別な」だけに「スペシャルな」料金がかかるはずです。
経済的にもそれだけ見合う投資なのか、冷静な判断が必要でしょう。ましてや参加費があなたのお金ではない場合、もっと慎重な態度が求められます。
しかし逆説的にはなりますが、直観や心の囁きの求め、今まで動きくても動けなかったのに、時間やお金が偶然のように揃ったなど、シンクロニシティのような形で促されている場合もあります。
冒険心・チャレンジ精神も時には必要で、特に日常の殻を破りたい人、閉塞状況に今現在あり人で、何かの機会に変化を起こしたい人には、やや無謀とも思える行いがターニングポイントになることがあります。
判断は難しいのですが、やはり先述したようにたくさんのシンクロが起こっている、あるいは今までの感覚・実際とは明らかに違って、心の奥から何かかが生じてきているというような時は、参加への検討を前向きにしてもよいかと考えられます。
ほかにも、普段の生活の中で、ほんの些細な事でも、何かこれまでとは異なる事を発見した、イレギュラーを感じたということがメッセージということもあります。これはあまり言われていないことですが、非常に重要なことです。
それから、私たちは特別ばかりを求めたがりますが、日常の何気ない毎日のシーンの中でも、モノの見方を変えたり、実際に少し移動したりするだけ、ずいぶんと大きなスピリチュアル的な気づきをもたらすことがあります。
道ばたに咲く小さな花に生命の神秘を見たり、雲間からこぼれる一条の光に生きる勇気をもらったりするようなことです。
これは爆発的なインパクトというより、日々の積み重ねによる気づきが満杯になって、特別な機会と同じ、いやそれ以上の効力を持つと言ってよいものでしょう。
もちろん積み重ね以外でも、普段の生活のある一瞬のシーンで、悟りのようなものが来ることもあります。
重要なことは、たとえ特別な機会や場所で得た気づきが大きくても、それを日常にいかに活かしていくかであり、反対に日常の中でいかに特別なものを見ることができるかということも大切な気づきとなってきます。
そう思うと、ある種の「特別な」知識や経験をひとつでもすれば(得られれば)、あとはその見方を普段の生活にも適用し、自分を拡大して「特別に」発展させていくことができるのだとわかります。

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