「愛」の気づき方
どんな世界でも「愛」が大切だと言われます。
スピリチュアルな分野では、宇宙や神は「愛」しかないという人もいます。
そういわれると実はシンプルな話(結局は「愛」となりますので)になり、心が楽になることもあります。
一方で、「愛とは何か」とか、テーマとして深く見つめていくと逆に複雑になってきます。「愛」について考えすぎると、心が苦しくなることさえあります。
こう書きながらも、思わず自分自身笑ってしまいました。なぜかと言いますと、タロットなど、古代的な象徴を理解していくと、物事は単純で、かつ複雑であるという宇宙の本質や真理が見えてくるからです。
実は今回の記事では宇宙は「愛」なのか?ということを考察しようとしていたのですが、図らずもいきなり結論が出てしまった感(「愛」はシンプルで複雑であるため)があります。ですから笑ってしまったのです。(^^;)
そう、象徴的に見れば、物事はすべてシンプルなのですが、その表現や次元(レベル)の違いによって、多少、大小、明暗など千差万別に変化するものなのです。
仏教的に言えば、すべては仏の慈悲の表現、西洋的には神というひとつの偉大なものが、化身や天使(使い)と現れるみたい形です。
神のような大きな愛、究極の愛を求めれば不足や至らなさをに感じるかもしれませんが、自分なり、相手なり、状態なりによって、「愛」の表現はどこにでも、どんな時にでもそのレベルに応じて遍在していると言えるでしょう。この考え方に立てば、皆「愛」です。
とはいえ、いきなり大きなもの、レベルの高いものに一足飛びに到達することは、ほかのことを思ってみても難しいことは誰でもわかるでしょう。
愛するということは、愛(の表現・物理的には形にもなります)を発見する能力を磨くということでもあります。
愛が何なのか、どういう質でエネルギーは何なのかを感じ理解しないと、同質ものを自分や周囲から発見することは困難です。
しかしながら、意外なことですが、「それが愛なんだよ」と言われて初めて気がつくことが人にはあるのです。
「こんなものが愛だったなんて!」と驚き、知るのです。それは本当に些細なものなのです。
例えば、私はこの前、通っている整体師の先生から「打ち身は放置しているとよくないので、打ち身すると手を当てるとよいですよ」と教えられましたが、それ以来、どこかに足や手をぶつけたりした場合、自分の手をその箇所に当てることをしています。
すると、その自分の手の温かさ、エネルギー、いたわりが突然自分の心に響いてきたのですね。
まるで自分の体が、お互いに「ありがとう」と言っているような感覚です。その時私は、これは「愛だな」と気がつきました。
単に手を当てただけで、そこに小さいとはいえ「愛」があったのです。(正確には気付いた、発見した)
すると自分の体に宿る愛とエネルギー、それはいったいどこから来ているのかということを思うと、レベルの高いものに少しだけ近づく感じも起こります。これはまるで象徴によって根源の一部にふれる感覚と似ています。
「私は自分を愛せない」「人を愛せない」「愛なんて大げさな・・・」と思う方は、本当に局所的な部分、わずかな時間でもよいので、注意深く「愛」の発見に努めてみるとよいでしょう。
「愛」と思うから大変なのであって、労り、気遣い、注意、温かみ、穏やかさ、守る気持ち・・・など誰しも持っている表現している些細なことからの発見でよいのです。
大事なのは、「在る(どこにも存在する)ことに気付く」ことですね。
そして注目すれば、人にはその情報を集める機能が働きますので、自然、あなたの周りには「愛」が集まってくる(もともとあったものに気がつく)ようになります。
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