神は外にいるのか、内にいるのか?

私たちは何かあると、神頼みしたり、神に祈ったりします。

ここでいう「」とは何も神道における神を指すのではなく、仏教的には「仏」と言ってもいいですし、とにかく特定の宗教には関係なく、私たち人間を超越した存在ということです。

時や場所に関係なく、私たちは困難なことに遭遇したり、夢や希望を叶えてほしいと思ったり、奇跡的なことを望んだりするような場合など祈ります。

またその祈りが形式化・儀式化されることで、神殿や寺院のような「祈る場所」も作られてきます。

ところで、スピリチュアルな考えでよく言われるのは、実は「神様は自分の中に存在している」というものがあります。

心理的な技法の前提でも、「答えは自分が知っている」というものがあり、これなども表現の違いであって同じような意味になるかもしれません。

それならば、何も外(の神に)に祈るという行為はしなくていいはずです。

私たち自分自身の中に神が存在するのですから、外に祈るのではなく、自分に祈ればいいだけとなるはずですから。

外に祈るなどすれば、それこそ、「どこ向いて祈っているんだ!」となりますよね。

しかしながら、最初にも書いたように、私たちはやはり一般的には外に祈ります。自分に祈るような人はほとんどいないでしょう。

「いや、それはスピリチュアルな関心や気づきがある人と、一般の、そうしたことには無関心な人との違いだよ」と思うかもしれません。

ただ特別なこと(人・行為)がスピリチュアルだというのもどうかという気がしますし、多くの人が外に祈っているのに、「自分の中に神がいる」ということが果たして正しいのかという疑念にもなってきます。

反対に「自分に祈らないから叶うものも叶わず、世の中がおかしいのだ」という考え方もできるでしょう。

いわゆる目覚めや悟りのようなものには、通常を超える必要性があり、それならばやはり、皆のしている方向とは異なるもののほうが正しいということになるかもしれません。

この問い(自分の外に神がいるのか、中にいるのか)の答えは誰にもわからないでしょうから、結局答えというものはないと思ったほうがよいでしょう。

しかしこれらを統合する解答(どちらでもなくて、どちらでもある)は導き出せそうです。そして、私自身はその統合した答えを出そうとすること自体に大きな意味があると感じています。

皆さんもこの問いに取り組んでみてください。きっといろいろな気づきが得られることでしょう。

私自身はマルセイユタロットを使って、この問いに対峙しています。面白い事に、マルセイユタロットはこうした禅問答のようなことに光りを与えたり、発想を導いてくれたりするのです。

それはマルセイユタロット自体、まさに智慧の宝庫だからです。

ただそのためには、最低でも基本的なマルセイユタロットの伝えているものと意味を知る必要はあります。

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