「世界は完全」と見た場合の世界観

精神世界の考え方に、「の世界は完全である」というものと、逆に不完全であるという見方があります。


これはどちらが正しいというものではなく、個人的には「世界」のとらえ方によって変わってくると思います。


ですからよくこのブログの比喩でも出てきますが、やはり「禅問答」のようなもので、世界は完全でもあり不完全でもあるというのが答えだと思います。


さて、ここで今回はあえて世界は完全であるという見方を採用します。


そうすると、過去だろうが今だろうが未来だろうが、私たちは完全な世界に住んでいるということになります。


こう言いますと、「えぇ、それはないですよ、とごが完全なんですか? 問題なことばかりの世界じゃないですか」と述べる方もおられるでしょうし、個別にも「完全どころか、私の人生は不幸そのものでしたよ」と言われる方もいらっしゃるでしょう。


ですが、ここはあえて前提として「世界は完全はである」と仮定してみてください。


すると、たとえばあなたの周囲にいる人間、もっと象徴的に言えば「あなたが認識している人間」はすべて存在価値があるということになります。世界は完全だと想定するのですから、当然誰一人として無駄な人いない、全員あなたの人生劇場の必要な役者であるとなります。


ですからたとえあなたにとって避けたい人、嫌いな人でもあっても、その人はあなたには何らかの必要価値があって存在しているわけです。


これは人で言っていますが、モノや環境でも同じでしょう。つまりは事の良し悪し・大小にかかわらず、すべて完全世界の完成形パズルとしては必要なピースだということです。


ここで大切なのは、「世界」の範囲とレベルです。


さきほど私は「あなたが認識している世界」と表現しました。これは逆にいえば、「あなたが認識していないものは“あなたの世界”にならない」と言い換えることができます。


実は世界が完全だとすれば、その完全性はどの局面(フィールド・範囲)でも成立する理(ことわり)となりますが、まずは見ておかなくてはならないのは「自分が認識している世界」という範囲内の完全性です。


ここ(自分の認識している世界)での完全性が理解できれば、あなたの認識力と完全性の範囲はさらに拡大をします。もしくはレベル(次元)が上昇します。


図で説明すればわかりやすいのですが、1つの小さな円を想像してください。その円こそがあなたの認識している世界であり、また運ばれたり動けたりする「」の世界なのです。


ここであなたがこの円の中での完全性を発見しない限り、あなたはその範囲内の円でしか活動できないことになります。


というのは、世界がどの局面でも完全であるとするのならば、その小さな円内の世界の完全性が認識できなければ円のエネルギーが満たされず、円の範囲そのもの(枠)を打ち破ることができないからです。


円は縁と言いましたが、運ばれる縁もその円内の中に限られるようになります。


今の円で完全性が発見できていない状態というのが、自分にとってその世界(円内世界)が不調和ということであり、時には不幸や大変さを人生で感じてしまうことになります。


円の中での完全性に目覚めると、円の中は調和し、さらに円は拡大して新たな縁が運ばれ、あなたの人生は変わります。これはすなわち、あなたの認識していた世界の変容と発展・拡大・上昇を意味します。


具体的には問題の人と自然に別れるようなことになったり、反対に信頼できる人や自分を成長させてくれるような人に出会ったり、苦しい環境からよい環境に変わる機会が得られたりすることとして生じます。


言ってみれば、いかに今の認識している世界「円」をすばらしい「園」(パラダイス・完全性)として意識できるかが鍵と言ってもよいでしょう。


それにはやはりモノを多方向から見る術(すべ)が有効です。マルセイユタロットはそのよきツールとなります。


これは世界が完全であるという仮定に基づく話ですが、反対に世界は不完全であると想定した場合も、「円」をイメージして面白い話ができるので、皆さんも考えてみてください。


ちなみマルセイユタロットに流れる思想と言われる「グノーシス主義」は、「世界は不完全である」という前提に立っていますが、本質的には実は「完全である」ととらえています。やはり禅問答ですよね。(笑)

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