「幸せ」をタロットともに考える。

今日は何となくですが、「幸せ」というものをテーマに書いてみたいと思います。

まず意外にわかっているようでわかっていなのが「幸せ」という概念です。

みんなが幸せになってほしいという言葉や主張がありますが、一方で全員が全員、幸せになれる思想というものはあるのかと問われれば難しいものです。

幸せと思うことというのは人によって違いがありますよね。

たとえ等量のものに囲まれていたり(たとえば同じ量のお金を持っていることなど)、同じ状況にいたりいたとしても、ある人にとっては幸せと感じるかもしれませんが、別の人には不幸だと思うこともあるからです。

こうなると、幸せというものは結局、個人の思い方・感じ方にあるということになりそうです。

ということは、どんな時にでも幸せと感じる気持ちを持てるようできればいいことになります。

これには前にも書きましたが、知識や経験を増やして意識を拡大させることによって「こういう楽しさ、見方もあるのか」ということでできますし、反対に自分がこれて不幸せだと感じていたことを思い直すことができたり、浄化・中和したりできれば、過剰な分のマイナス感が消えますので、その分幸せと思うプラス感は増えることになります。

それはさておき、タロットをしてきて思うのは、今より幸せを感じる早道は、案外「正義の問題」と関係しているということです。

これは簡単に言えば、正しいか正しくないかを求めるより、それが自分にとって幸せ(別の表現にすれば心地よいとか楽であるとか)である(になる)かどうかを選択するほうよいのではないかということです。

ただし幸せと感じる方を選択すると言っても「逃避」とは違うので、注意が必要です。とはいえ、時には逃避でさえ、正義を求めるよりも幸せに近づく場合もあるように思います。

実は本当の正義とは、まさに自分の奥底のもの、神性ともいうべきものにとっての正義と考えられ、それは自分の心を痛める正義ではないということになります。(心痛める正義とは、その時に「常識」と言われていることや規範、誰かの決めたこと、心を閉じこめるルールのようなものです)

ですから、真の意味で正義を求めることは、幸せに近づくことと同意義だと私は考えています。

このことはタロットの並びや、「正義」のカードとの関連を考察していくとわかってきます。

それから、まずは人の幸せより自分の幸せを追求し、実践していくことだと感じます。

あまりにもバランスの崩れた利他主義は過度の自己犠牲につながり、それが心からのものであればよいかもしれませんが、たいていはどこかに損得勘定が働いています。(それが悪いと言っているのではありません)

「これだけやっているのに、どうして私に見返りがないのか」という思いです。

そういう気持ちが起こるのならば、単純に自分の幸せを先にもっと求めたほうがいいです。誰のための人生でもなく、自分のための人生なのですから。

自分のための人生を、しっかりと責任(これは他人への責任という意味ではなく、自分が選択し実行することへの自分への責任)を取って歩めば、結果的にそれが他人や社会への貢献につながっていくものです。

ことさら人のためということを意識せずとも、素直に自己表現を行っていくことで、他人のためになるのです。

それにはやはり自分が幸せと感じるシーンが多くなることが大切です。

自分が幸せと感じれば感じるほど、他人の幸せを感じることもできます。そしてまだその人が幸せと感じていないことも発見して、それを伝えることも可能になってきます。

これがまさに「幸せの輪」が広がるということではないかと私は思っています。

マルセイユタロットは、自分のモノの見方・考え方を変えます。そして幸せ(究極の状態は「世界」のカードが示しています)に至る道筋やあり方をカードが示唆します。

これによって、自分の幸せと感じる質と量を増やすと同時に、先述したように他人への幸せを見つけ、そのことを伝えていくこともできるようになるのです。

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