「楽しむ」という言葉に素直になれない人へ。

昨今は、いろいろなところで、仕事であれプライベートであれ、「楽しむ」「楽しんだらよい」という話や主張が見受けられます。


正直言いまして、私はこれらの言葉には抵抗がありました。


「楽しむ」には「楽」という文字があり、楽しむこと=楽をすること、簡単なこと、というように受け取られたからです。(実際深くには、いい意味で、そのことも隠されています)


誰もが楽しく、楽に過ごしたいとは思っていても、そうなれないから困っているわけです。簡単に「楽しめ」など言われると、むしろ腹が立ってくる人もいらっしゃるでしょう。


これに対して、「もっと楽に考えてみたら?」という言葉は、まだ何とか説得力を持ちます。それは相手の(困っている)状況を意識して、さらにそんな相手を気遣って言っているように思えるからです。


「楽しむ」という言葉を使う場合、それは自分が今楽しめている(問題をクリアーしてきた)から使えることであって、ほかの人が自分と同じ物理的・精神的状況に置かれているとは限らないということは認識していたほうがよいでしょう。


いわば上から目線にならないように注意がいるのです。人には、現在、物事を楽しめないほどの課題や問題の渦中にいる人も多いのです。


こうしたことを述べると、必ず言われるのは、自分の心のブロックの問題です。


自分の中に、「楽をしてはならない」「努力してこそ、人生だ」「人生は甘いものではない」「自分は一生懸命やっているのに評価してもらっていない」「自分は不幸だ」「物事は複雑で、そう簡単なはずがない」「楽しむと怠けているように咎められる気がする」・・・などなどの思い込み、ブロックがあるから「楽しめない」し、「楽しむ」ことに抵抗が出るのだというものです。


これは確かにそういう面もあると思います。人は自分の思いの通りに人生を作りあげていく傾向があるからです。(言い換えれば、自分の思いを証明しようとするように動く)


特に長男長女の人など、成育歴において人目を気にしないといけなかった人たち、古い世代の方たちは、そういうブロックが多いかもしれません。


私自身も抵抗する心の中を見つめると、今述べたような重しのようなもの、考え方がすり込まれていたことを感じました。


しかしながら、感情だけではなく、さらに知性も含めて考察していくと、ほかの問題もあることに気がついてきました。


それは「楽しむ」という言葉から連想する状態や行動のイメージの問題です。


実は、よく考えてみれば、「楽しむ」というものは心の状態や思いの様子であるので、人によって、まさに千差万別の「楽しみ方」「楽しいとする感じ方」があるものです。


私が抵抗していた「楽しむ」というイメージは、それこそ何も考えず、「すっごい、ワクワクする」とか「めっちゃ楽しい!」とか、「面白くってしょーがない!!」というような態度で、周囲を洞察することなく自分勝手・独りよがりに「面白がっている」というようなものが支配していたわけです。


一言でいうならば、エゴ・自分しか見えていない人の楽しみ方でした。さらには、そのような楽しみ方をする人は悪い人だと決めつけていたこともありました。


結局のところ、「楽しみ」「楽しむ」ということは、抽象的で人類に共通する概念かもしれませんが、個別的には人それぞれの楽しみ方、楽しく感じるやり方があり、違っていていいのだということです。


たとえば、他人から楽しそうに見えなくても、自分が楽しいと感じていれば、それは楽しめていると言えます。


また「ワクワク」とか「喜び」などで「楽しむ」「楽しい」は表現されがちですが、「じーんとくる」「穏やかである」「平和な気持ち」「ほほえましい」「心地よい」「気にならない」・・・など、人によっては様々な状態と言葉で表すことも可能で、自分が「いい」と感じているその時こそが、「楽しんでいる時」だと考えればいいわけです。


同じような感じ方をする者で集まれば、当然全員が「楽しい」でしょうが、その「楽しい」と感じる表現方法が異なるグループに自分がいると、ほかの人は楽しいと感じていても、あなたは楽しいとは感じられないでしょう。


つまるところ、「楽しくあれ」「楽しむことが大切」と言う方の行動や表現を、そのままコピーしたり、受け入れたりしなくてもよいのです。


受け入れるのは、「楽しむ」と言っている奥底の根源的なことであり、あなたにとっては「楽をしろ」というのでもなければ、「もっと行動的になろうよ」と言うのでもなく、あなた自身の感じ方・表現方法で楽しめることをすればよいと受け取ればいいのです。


もっと言えば、すでに自分は楽しんでいる部分や心があり、それに気がついていないだけで、ほんの少しでも楽しんでいるあなたを発見し、認めてみるといいですよ、ということでもあります。


そうなると、他人の楽しみがどうこうと言うのではなく、「ああ、私もちょっとだけだけど、楽しめているんだ」と気づき、自分と自分の人生が、ほんの少しでも愛おしくなります。


そして、実は「楽しむ」「楽しんだらいいよ」と話す誰もが、それは「愛の表現」の拡大について言っていることに最終的には気がつくでしょう。


ここまで来ますと、人から「楽しんだら」と言われても、素直に自他の中に「」を感じることができるようになります。

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