「太陽」のカードから見る自由
マルセイユタロットでは「自由」を象徴するカードといえば、「愚者」が挙げられるかもしれません。
また「太陽」もある意味、解放された自由表現でもあります。
ただあえて記しておきますが、どのカードにも自由の部分と、反対の束縛的な意味はどこかに描かれていたり、位置的なことで出てきたりしますので、このカードはこうだと決めつけてはまずいです。
さて、「自由」という言葉を出したように、今日はこの「自由」を、先程の「太陽」のカードとともに考えたいと思います。
マルセイユ版の「太陽」は二人の裸の人物が手を取り、肩を組んで喜び合っているように描かれています。
名前の由来ともなっている太陽も、それこそ極大というくらい、さんさんと輝いています。
この太陽には顔が描かれており、どうやら通常の太陽と違う意味もありそうですよね。カードの象徴や意味自体の詳しくは、講座でお伝えしています。
ところでマルセイユタロットでは大アルカナのカードの番号自体にも象徴性があり(小アルカナの数カードも無論あります)、その数の大小には成長や発展の度合い、個別・具体と抽象・統合の比較などの意味があります。
そして、単純に言って、数が多いほどいろいろと遍歴を重ねてきていると取ることもできるのです。
翻って「太陽」の数を見ますと、そこには「19」(本来はローマ数字表記ですが、文字化けのおそれがあるので算用数字表記としています)の数が見て取れます。大アルカナは22枚ですので、かなり後ろの数となります。
つまり、それだけ経験値も高く、蓄積も多いと言えるのです。
ということは、太陽は一見、絵柄から開放的で自由な雰囲気を漂わせていますが、ここに至るまではきっと大変なことがたくさんあり、気づきと実行も多く重ねてきたということが推測できます。
そう、私たちの獲得する自由と解放の意味も、ここに価値があるのだと考えられます。
自由というのは言葉で言えば楽しく簡単なようですが、そこには束縛されていることの自覚が必要であり、ただ快楽に溺れていたり、逃げたりしているのは自由を味わっているとは言えません。
自由と解放に至るには、時には迷路をさまよったり、もがき苦しむことを経験したり、逃れようにも逃れないしがらみを味わったり、反対にとても心地よいと感じる偽物の「本質世界」の幻想に泳がされたり、まさに様々の過程があるのです。
自由のためには物事の受容とともに、疑いと探求の姿勢も求められます。
何を言っているのか、わからない人もいるかもしれません。
それは一般的に、ジャッジすること、疑いを持つことはスピリチュアル的な成長のためには障害になると思わされていることもあるからです。
また気持ちよいこと、心地よいことが推奨され、それが高次であると誤解を植え付けられていることもあるでしょう。(これは間違ってはいないと思うのですが、心地よさの質が問われます、欲求を満たす快楽との違いを明確にしないといけません)
私はマルセイユタロットの「太陽」を見ていると、本当にここまで来ることの大変さを感じ、それだけ逆に、「太陽」をもって非常な喜びと解放感をカードから感じることができます。
カードの象徴的な意味を知識と感覚でとらえないと、底の浅いものしかカードからは得られません。
いや、カードから得るというより、カードを触媒として、自分の内から認識できるものを得るということであり、それこそがグノーシス(霊智・神性なる自己の認識)の一環でもあると思っています。
単なる気分でカードを見ていても深くには到達しません。やはりそこには知識を働かせ、自分の経験と感情とともに観察していく態度が求められます。
「自由」に行き着くためには、それなりの努力と責任が問われるのです。
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