禁止より許可 囚われからの解放

今までご相談していただいた経験を振り返ってみますと、多くの方に言えることがありました。

それを一言で表せば、「禁止より許可を」となります。

悩みや問題があって相談に来られるわけですから、開放的な気分でいるはずはなく、言わば皆さん、何かの囚われ状態にあります。

一口に「囚われ」と言ってしまえば簡単ですが、悩める当人にとっては非常に切実で、それは見えない(現れている事態とは別の)問題なのです。

その「囚われ」は、まさに当人の歴史であったり、プライドであったりする場合もあります。

なぜならば、囚われとは本人のモノの見方・感じ方であり、思考の枠組、正義の根拠でもあるからです。

それがなぜ出来上がったのかと言えば、やはり本人のそれまでの生き方・過ごし方・学習・結果という「本人史」から自分を確立させてきたため、拠り所として存在するようになったということです。

従って、ある意味、積み重なって出来上がった巨大な建造物ともいえ、またデータベースへの慣れたアクセス方法(通り道)にもなっているので、そう簡単に囚われから脱出できたり、見方を変えたりするというのは、単独ではできにくいものです。

そこで、今述べた、特に「慣れたアクセス方法(通り道)」ということに着目したいのですが、これが実は囚われの元であるとも言えます。

脳で言うと、おそらく神経細胞ネットワークの、当人にとっての定番の電気信号の流れ方と言い換えてもいいかもしれません。

たとえると、毎日の決まった通勤ルートや、何も考えずとも行き帰りのできる外出パターンのようなもので、もはや自動的でもあり、それゆえに労力もあまりいらず、とても安心・安全の状態でいられます。

ところが、「今まで経験したことのないルートで、同じ時間内に目的地に着け!」とか、「もっと安くて速い効率的なルートをすぐに見つけろ!」という具合に、現在のレベルを超えた要求をされると、途端にパニックになってしまいます。

そこで現れるのが禁止命令(をする存在)です。

「このルートからはずれると危い」ということを感じ、あなたを危険な目に遭わせないために、どこからか(脳か、自分のある部分から)「別ルート探索禁止!」みいたな司令がかがってくるのです。

これが具体的になれば、「この仕事以外ダメ」「あの人以外あり得ません」「この教えから、はずれることは破滅です」というような考えになってきます。

また同時に、このように「禁止する部分(存在)」とは別の者・部分から、「ほかの道もあるよ」「あなたは別のやり方でもいいんだよ」「ほかの人だってOK」という声も聴きます

人の中には禁止司令もいますが、許可や複数の道の示唆をするアドバイザーもいるということです。

これはどちらが正しいかということでありません。状況と段階によっては、禁止司令に従うこともよいケースがあります。

それは本来「禁止(司令)」は、あなたを守る必要から生じているからです。準備もできていない状態で無闇に冒険するのは危険だからです。

とはいえ、あまりに同じパターンで安心の境地にいれば、先述の目的地へ行く例えではないですが、それを超える事態に遭遇すると、混乱を来し、それがまさに問題や悩みとなって現れます。

つまりは禁止ばかりでは成長や発展がないということです。

ここから考えますと、悩みや問題は、自分のこれまでの限界を突破するために起こる必然であり、そろそろ今まで培ってきた囚われ・枠から卒業する時が来ているのだという天からのお知らせでもあります。

これまであなたを守ってきた安全装置の解除の時期が来たのです。

解除の呪文であり、コード(暗号)と言えるのは、「○○してもよい」「○○でもOK」「これもあり」というような、許可的なものになります。

けれどもいきなりには許可状態に持って行きにくいですし、この記事でもふれたように、囚われの枠組みは個人単独では見えにくいものです。

誰かに短時間でも、いったん外に連れて行ってもらって、外側から自分を見るような導きが必要です。

それはに導いてもらうほうが効果的ですが、時には人ではなく、自然や書物、道具、舞台・劇・映像作品のようなものでも可能です。

タロットの場合は、タロットが道具としても、またそれを読む(タロットリーダー)人によってもできますので、二重の意味で優れていると言えます。

一人で枠から解放していく場合も、無理をせず、まずは禁止が多い自分の思考を観察し、次に「○○というのはどうだろう?」「○○的なこともありではないのか?」「もし○○とすれば、どうなのか?」「○○であっても死ぬことはない」など、許可に至る前の段階を思ってみることです。

言ってみれば「禁止」→「許可」というダイレクトで行くより、「禁止」→「仮定」→「許可」と、間に「仮定」をはさむとよいのです。

仮定とは「もしも」の世界であり、「もし○○であったら・・」「もし○○以外を選択したら・・」「もしこの感じを大切にしたら・・」というような「もし」をたくさん想像してみる感じになります。

ところで日本語は不思議もので、音が同じものは重要な関係性をもつことがあり、この場合も、「仮定」を「過程」(許可に至るプロセス)として考えることができます。

それから一度枠や囚われから脱出して、問題を解決したように見えて、実は別の大きな枠組にあなたはいますので、それを超える事態に遭えば、また問題や悩みとして浮上します

それでも、そうやって自己は拡大し、何重もの囚われからその度に抜け出し、真の解放へと向かうのです。

ということは逆に言えば、枠や囚われにいることも大切で、それに気付くためには存在自体なければならないのです。だから囚われ・枠があることは、段階的によいことでもあります。

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