タロットから見る、なぜ生き(ている)るのか?

マルセイユタロットの中には、人はもともと完全なるもの=神であるという考え方があります。

(※これはあくまで私が学んだ中でのものですので、そんなことは示していないという見方も、もちろんあります)

私はこれは本当に実感してきています。

しかしながら、実際には人は悩んだり、苦しんだり、問題を抱えたり、欲望に生きたり・・・完全性にはほど遠い生き物だと多くの人は感じると思います。

このことは、マルセイユタロットの絵柄と数の並びを逆にたどてっいくとわかるのですが、私たちは完全であることを忘れているからだと考えられます。

そのために、いろいろなものを身にまとって自分を守るかのように生きなければならず(不完全と思っているので、別のものを身につけようとする)、本当のクリアーで完全な状態がわからくなっている状態だと言えます。

そして身につけていくものには、プラスとマイナスのものがあります。

プラスはよりよく生きるたための技術や知識・経験等で、これは結局、完全性を思い出すことに役立ちます。

逆にマイナスは恐れや不安などのネガティブな感情・意識・思い込み・観念のようなもので、完全性を思い出すことに抵抗します。

ただネガティブなだけではなく、「正義(正しいこと)」にこだわる考えや、「ねばならない」というような自分に知らず知らず課しているルールや枠組も抵抗に入ってきます。

ですから、これらマイナスなものと数々の思い込みの枠組を掃除(クリーニング)していくことが、本来の完全に戻る方法のひとつと言えます。

とはいえ、こうしたことを考えてきますと、次のような疑問が生じてきます。

それは、なぜもともと完全な人間が、いろいろなものを身にまとわないと生きていけない「この世」に生まれて来るのか?という根源的な問題・テーマです。

この答えは難しく、哲学的・霊的なものだとも言えますが、私はマルセイユタロットを見てきて、こう考えています。

それは完全性を思い出すゲームを楽しむためであると。

「人生がゲーム」だと表現しますと、失礼と申しますか、ふざけるな!とお怒りの方もいらっしゃるでしょうが、別にふざけているわけではなく、私としては真剣なたとえです。

あえてハンディを最初から背負う制約の世界で、もともとハンディのない完全なる自分に、どこまで回復することができるのかを競うゲームというのが人生ではないかと思っています。

競うと言いましても、他人と順位を争うようなものではなくて、あくまで個人個人の絶対値として評価されるものです。

もしかすると、生まれる前に決めたある得点や目標状態があり、それに到達したか、上回るかで評価が決まるのかもしれません。

ただそれは、あの世の他の存在が決める(決めている)のではなく、真実は自分が決め、自分で評価するものだと想像しています。(しかしこの「自分」は「全体」という存在だとすれば、ただの個人としての自分ではないと想定できます)

さらにつきつめると、仮にゲームを楽しむために生きているとしても、なぜ真理(宇宙全体)として、ゲームを行う必要があるのかという、またより根本的な疑問が生じます。

この回答も普通の人間ごとき存在では永遠にわからないのかもしれない大テーマではありますが、畏れながら、今の私が述べるなら、「創造」ということが鍵ではないかと思っています。

それはゲームを楽しみ、クリアーしていく過程そのもので、一人一人の個人が様々に趣向を凝らし、悩んだり乗り越えていったりすることで、新しい創造性(拡大性)のエネルギーが生み出されるのではないかということです。

つまり、宇宙全体が拡大発展していくためのゲーム(個人と全体)であると。

こう考えますと、私たち個人個人一人の人生が、すべて無駄ではなく必然で、宇宙全体に誰もが寄与していることになるのです。

さて、話は戻りますが、それはそれとして、私たちが本来に戻るためには、やはり身にまとっている重たいものを脱いでいく必要があります。

それについては、またいずれ別記事で書いてみたいと思います。

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