バカポンパパの言葉の救済力
妻と昔の話をしていた時、公務員時代のことが出てきました。
その時、入庁し、赴任する過程で知り合った友人がいます。もしかすると彼もこの記事を読んでるかもしれませんが、とても楽しい人で、私とはある意味正反対のところをもっている人物でした。
彼のおかげで、私はさらに「人間」、特に「異性」(苦笑)というものを知ることができたのですが、それはまたの機会にお話します。
で、何のことだったのか忘れたのですが、彼とあることをしていて、二人とも疲れてしまい、「このまま、もし走ったら、苦しくて絶対アゴとか腹が出てしまってかっこ悪いよな・・」と語り、どちらからともなく、「それじゃ、まるでバカポンのパパの走りだよ」と笑い合ったのを思い出したのです。
そこから私はなぜか、彼からバカボンのパパのことに意識が移行し、「そういえば、バカポンパパって、結構今から考えると、哲学的、スピリチュアル的とも言えるセリフを吐いていたよなあ・・」という思いに至りました。
気になって、「バカポンパパ 名言」のキーワードで検索してみると、あります、あります。
まず、なんと言ってもバカボンパパと言えば、「これでいいのだ!」が挙げられます。
これって、すごい言葉ですよね。
まさに「自分」に帰る、自分らしさを取り戻すアファーメーションのようにも思えますし、自然体、流れるままに・・という印象も受けます。
特に対人関係などで悩みすぎる人には、「これでいいのだ」と思うだけで、ずいぶん心も楽になってくる人もいるのではないでしょうか。
ほかにも、相談のケースで多い、子供さんのことで悩む親御さんに聞かせてあげたいのが、
「子どもをいつまでも親のものにしておくのは間違いなのだ!!これが人間界の摂理なのだ!!」
これ、ホント、なかなかすごいです。
そして、やはり極めつきは、これでしょう。
わしは バカボンのパパなのだ
この世は むずかしいのだ
わしの思うようにはならないのだ
でも わしは大丈夫なのだ
わしはいつでもわしなので 大丈夫なのだ
これでいいのだと言っているから 大丈夫なのだ
あなたも あなたで それでいいのだ
それでいいのだ
それでいいのだ
わしはリタイヤしたのだ
全ての心配から リタイヤしたのだ
だからわしは 疲れないのだ
どうだ これでいいのだ
これでいいのだ
やっぱりこれでいいのだ ~
特に後半、「わしはすべての心配からリタイヤしたのだ」という文句は極めて名言だと思います。
まあ、そうできないからみんな悩むわけですが、「リタイヤ」という表現が面白く、どこか肩の力を抜かせますよね。
普通は一生懸命働いていたことから、のんびりリタイヤするというようなことで使われる言葉ですが、私たちは何より、心配とか、思い込みとか、自分を知らず知らず縛っているものなど、とにかくいろいろなことを頭の中でイメージし、創造し、それによってとらわれ、心配しています。
これはまるで、(よくない)労働と同じです。いわば無報酬の過酷な労働を強いられたり、理不尽なつきあい残業につきあわさられているようなものなのです。
それくらい、「心配」が精神エネルギーを浪費していると言えます。
時にはバカボンパパのように、「これでいいのだ!」と開き直ったり、「自分は自分」とただ流れに身を任せ、楽しむような気持ちになっていいと思います。
そして、心配から少しでもリタイヤしましょう。そうすると、あなたもバカボンパパのように、「疲れないのだ」となります。
なお、「バカポン」(の登場人物名や世界観)は、仏教(禅を含む)とその用語から来ているという話もあります。
赤塚不二夫氏の生み出したギャグ漫画ではありますが、その本質は非常に奥が深く、忙しく囚われがちの私たち現代人に、解放の示唆を与えてくれるものだと感じます。
マルセイユタロットでいえば、「愚者」が「節制」に変化(へんげ)したようなものです。
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