「他人は自分」として見る方法について。
精神や・スピリチュアルな世界で、よく信じられることに、「他人は自分を映し出す鏡」というものがあります。
これは私自身は、その通りかもしれないし、そうではないと言えるかもしれないと思っています。
というより、マルセイユタロットを思考の整理ツールとして見ていくうちに、結局何事もたとづりつくのは以下のことになるのです。
Aという考えがある。また相反するBという考えがある。どちらも相容れないもののように見えて、実は同じものを別の方向(あるいは次元)から見たものに過ぎない。
ですから、矛盾するようで矛盾しないという結論になり、どちらも正解というか、間違いというものがなく、ある立場・フィールドという限定されたところに行くと、正・誤に見えると言うことなのです。
さて、話を戻します。
「他人は自分を映し出す鏡」という考えでしたね。
先述したように、結局これはそう思えばそうであり、そう思わないのなら違うことになりますが、私がこの考え方を採用する時、このような方法にします。
それは、「都合のいい解釈」です。(笑)
平たく言えば、自分を見つめ直したい、反省して成長してみたいという「雰囲気(モードと言ってもよいかもしれません)」の時は、「他人は自分を映し出す鏡」説を大いに利用し、「人のふり見て我が身を直せ」ではないですが、不快なことがあっても、「きっと自分に同じところがあるのだ」と考え、自己洞察を進めます。
逆に、あまりに不快感が過ぎる時、気持ちをよくしておきたい場合は、他人のことが気になっても無視するようにします。極端なことは言えば、他人は他人、自分は自分です。
でもこれでは、ちょっと精神世界傾向にある人には不評かもしれませんね。
ではもっと、特に「自分は自分、他人は他人」と考える根拠を述べます。
理由はシンプルです。
自分も他人も同じ人ではあり、集合意識や潜在的な部分では確かにつながっているかもしれませんし、全員が大いなる根源(神と言ってもよいです)から派生した存在という考えに立つと、つまるところ、他人は自分でもあります。
ただ、私たちがこの地球に住む「人間」という種のレベルで誕生し、生活をする時、「個性」表現があるということなのです。
神(根源)のエネルギーは次元を下っていくにつれ、個別性をもつようになります。
「火」も火花として散ると、たき火の火になったり、コンロの火になったり、ローソクの火になったり、電気になると各種電気製品を動かす元になったりします。同じ火ではありますが、別々の火のように見えます。
つまり「器」が違うと、表現も異なるということです。
ここから、人は究極的には同じではありますが、皆、個性の器を持ち、だからこそ、別々なのだということも言えることができるのです。
あの人はあの人なり、その人はその人なりの表現をして生き、宇宙に何らかの形で貢献しています。あなた自身と違っていて当たり前です。
ということで、必要以上に、特に人のネガティブな表現を、「自分もあの人のようなことがあるのだ」と思わないことです。
いえ、思ってもいいのですが、それは自己成長のための刺激やテーマとして見て、自己を貶めるために使うものではないと考えます。(「他人を自分として見る」というのは、当然、自己卑下として見るという意味ではありません、むしろ逆の「自己尊重」の技術です)
もちろん、「他人を自分の鏡」として見て、自分を成長させるメソッドもすごい効果はあります。
それでも、それがすべてとか絶対だと思わず、適宜、自分の都合のよい形で採り入れていくこともOKではないかと語っているわけです。
何より、四六時中、他人(の不快の部分)を自分(でもある)と見て、落ち込んでいたら、自分の気分(波動)が下がり、それに同調した事態に自分を置くようになりますので、いわゆる運気的に悪いと思えるようなことが循環して行くこともあります。
これでは本末転倒のことになります。
ということで、実はメソッドはきちんと使う必要がある、ということも指摘しておきたいですね。
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