世界は私のもの、私は世界のもの。
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さて、今日の記事は、「世界は私のもの」そして、「私は世界のもの」という考え方についてご紹介します。
最初の「世界は私のもの」という文章を読んで、皆さんはどう思われたでしょうか。
エゴ丸出し、究極の我がまま、独裁者、狂気、ギャグ、漫画やアニメの世界・・・などいろいろとあるでしょう。
では次の「私は世界のもの」ではいかがですか。
何か犠牲的な感じ、全体主義的なイメージ、あるいは自分が役に立っているような感じもするかもしれませんね。
「世界」と「私」をただ入れ替えただけなのに、意味やニュアンスが、まるで正反対のように思えてくるから不思議です。
けれども、ここで言いたいのは、そのバランスと表裏一体の同意義的なことです。
どちらの考えも、実は誰しも自分の中に程度の差こそあれ、存在しているのです。
それは両者の文章の意味がまったくわからないという人は少なく、ほとんどの人が自分の中で、どちらも理解ができるからです。
だから正邪で考えを判断するのではなく、自分に「ある」ものとして認め、両者のバランスを計ることが大切だと言いたいわけです。
人によっては、あるいは状況によっては、「世界は私のもの」と考えたほうが自分のためにはよい場合もありますし、逆に「私は世界のもの」と思ったほうが、バランスが取れる場合もあります。
たとえば、地球が本当に危ないとなれば、「私は世界のもの」として、誰もが活動するかもしれません。
またすごく自信のない人、自己犠牲を我慢してやってきて、人生を自分のために生きていない人には、時には「世界は私のもの」と思ったほうが、その人の人生が好転することもあります。
また経済的な観点からも、この両者の考え方はなかなかに示唆を与えてくれます。
「世界は自分のためにある」と思って商売をするか、「私は世界のためにあると願って仕事をしていく」か、この意識の違いは面白いでしょう。
中には、「世界にあるお金・モノを自分の金庫・財布のように思っていれば、実際に自分のお金のイメージ量が増えて、流れがよくなる(自分が豊かになる)」と言う人さえいます。
それはともかく、これがもっとも大切なことですが、実はどちらも究極的には同じことになります。どうしてなのか?はあえて回答は書きません。
ヒントを言えば、どちらの考え方からでもいいので、その方向性をつきつめていくことです。
行き着く先は果たしてどこなのか? そうするとある瞬間に、光のような融合点・転換点が見えます。
マルセイユタロットの象徴でいうと、「∞」であったり、「蛇」であったりする意味です。
こうなると、皆さんは「私(自分)」が「私」であることの偉大さと有り難さに気がついてくるでしょう。
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