光と闇の関係
白と黒、光と闇。
これはよく対比されるたとえです。宗教的にもゾロアスター教などで見られる善悪二元論で、光や闇を、神(善神)と悪魔(魔王)みたいな形で表現しています。
ここでまず初歩的にとらわれがちなのが、光のほうがよいという、まさに二元的に分断してしまう考え方です。
すなわち、片方はまずいもの、都合の悪いもの、存在してはいけないものと決めつける思考です。
物語でいえば、正義は必ず勝つ、悪者は正義の味方に退治されてメデタシメデタシというタイプのものですね。
確かにそれは、スッキリ・さわやか(笑)という後味があるでしょうが、シナリオ的には演出・構成上、あまりほめられたものではありません。
というのも世の中、実際にはそんな単純には行かないからです。また、物語で感動が大きく深いものは、たいてい単純な善悪の争いではないことが多いはずです。
悪人だと思っていた人が、実はそうせざるを得なかった深い理由があったり、自分が正しいと思っていた人・グループが、実は結果的に世の中を破壊する片棒をかついでいたりした・・などの設定があったほうが面白いわけです。
善悪も究極的には、その人の持っている価値と基準によるものでしかありません。
とはいえ、シンプルに二元に見るのも、たまには自分を楽にすることに役立つことがあります。
たとえば条件が複雑に錯綜して判断に迷った時など、単純に「嫌だからしない、好きだからする」みたいに決めてしまえば、案外あっさりと片が付くことがあります。
さて二元は、実はひとつのものの別の見方の違いでしかありません。これは対極的でありながら、相補的関係(お互いに相補う合う関係)でもあります。
光そのものでは見ることはできず、闇があるからこそ光が見え、光があるから闇も存在し、照らされることもできるという関係にあります。
すると、光を追求すればするほど、闇が明確にはっきりと浮かび上がるようになり、逆に闇を貫いて行けば、光のまぶしさ・輝きもより実感できることになります。
これを人でいえば、善人になろうすればするほど悪が見えすぎてくる(気になる)ことになり、悪人であれぱあるほど善人をすぐ見極められるということでもあります。(ただこの表現は本当は適切ではありませんが、とりあえずわかりやすくするため、あえて書いています)
霊的・精神的・統合的な向上を目指すと、反対に人間的・物質的・個別的なことに悩まされたり、見させられたりすることが現れます。
反対に物質的なことを極めようとすると、精神的なことに導かれる出来事が発生します。
スピリチュアルを標榜している人が、人間的にドロドロしていたり、お金のことにこだわったりするのもそういう仕組みも働いています。
またどんどん浄化や学びを重ねているばすなのに、トラブルが起こったり、より自分がわがままになっていったりするように感じるのも、これが一因としてあります。
光が強い分、黒い泥の部分も強烈になっているのですね。
錬金術的にいえば、撹拌(混交・刺激・負荷)して沈殿し(待機・発酵・腐敗)、そののち新たなものが統合・創造されるというプロセスです。
この途中は自分が嫌になるほど、自分の醜い部分、エゴ(わがままな部分だけではなく、自尊できない部分や、過剰に依存したりする部分もあります)などを見せつけられることになります。
なお、マルセイユタロットの表現としては、悪魔も神(完全)の一部・過程・質とみなしていると、私個人では考えています。ですからマルセイユタロットは二元論的ではあっても、本当は一元論だということです。
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