宇宙に意味はあるのか、ないのか。
今回は大きなテーマになっています。最初に言っておきますが、結論は私にはわかりません。
それでは身も蓋もないので(笑)、考えるネタ、きっかけのようなものを提供したいと思います。
さて、このテーマを考えるに当たって問題になるのは、そもそもここで取り上げる「意味」とはどういうことなのかという点です。
と言いますのも、意味を「価値」や「評価」だと決めてしまう場合があるからです。
この場合の「価値」・「評価」とは、簡単にいえば、あるモノサシによって決められるよい・悪い、または多い・少ない、濃い・薄いなどのの「位置」であり、その基準です。
要は、何かの判定のための「基準」があるかどうかということになるでしょう。
この観点からすれば、「宇宙に意味はない」とするのが、スピリチュアル的な考えでは大勢を占めるのではないかと思います。
ただこの「宇宙」というものが、どの範疇や規模でとらえるかによって変わってきます。
「宇宙」というものを根源の何か、エネルギーのようなものとして見た場合、そこに価値評価(判断)する基準はないと見たほうがわかりやすいです。
たとえれば「色がない」「偏りがない」「オールOK」みたいな世界です。
この視点ならば、宇宙は意味(色・何かの価値基準)はないと言ってもいいかもしれません。
しかし、意味を理由(存在理由)や、必要性ということで見るのならば、私個人的には宇宙には意味があると考えています。
まず、これだけ完璧に、天体から人間・微生物に至るまで、あらゆるものが精巧かつ巧妙に存在していること自体が奇跡で、これに「意味がない」とは、とうてい思えないところがあります。
一言でいえば、「神」のようなものを想定しないと説明がつかないということです。
ただし神は、「意味なく、ただそのように完璧に創造した」と言えないこともありませんので、意味があるかないかとなると、「世界が完全・完璧・精巧に見えるから」という理由だけでは説明できないかもしれません。
今度は、フィールド(次元)を落として考えてみます。
例えば、「生きていることに意味がない(宇宙に意味がないことは同意義になるので)」としたならば、全員が果たしてそのことを納得できるでしょうか?
端的に言えば、「あなたの人生は無意味だ」と言われた時の感覚です。
おそらく、「私は人生に意味があると思っている」「私は使命や天命を感じている」「意味があるからこそ、人は生きられる」「意味を見つけるのは、人生そのものの発見に等しい」と言われる方は少なくないと思います。
このように、一気に「宇宙に意味はない」としてしまうと、個別的な人間の存在する意味さえなくなってくるおそれがあるのです。
となれば、やはり宇宙に意味はあるのか、あったほうがよいのかという感じにもなってきます。
ここで元に戻り、大きな俯瞰した目線で再び「宇宙」を見ます。そうすると、全体性や根源性にもう一度還ってきます。
ここに、「根源(ひとつ)と多数」「一と全」というような、古代の宇宙観がヒントとなって現れます。
つまり、根源・ひとつと表現する「大宇宙」では「意味はない」のですが、人間として個人個人・個性を持ってきますと、その「小宇宙」には「意味が出てくる」ということなのです。
図を想像するとわかりやすいです。
中心点から同心円状に幾つも広がる円をイメージしてください。(波紋みたいなイメージ)
外の円になればなるほど個別性を持ち、意味が出てきます。それもその個人に応じた意味です。
そして、中に行けば行くほど、円は点に近づき、最終的にはただの小さな一点になりますが、その「点」には意味はないのです。強いていうならば「在る」ことだけが意味としてあります。
もうひとつ例えると、宇宙の根源には意味はなくても、個人的には意味を「作ることができる」ということです。
「意味」も創造可能なように、神が人を「創造」してくれたと言ってもいいでしょう。
言うなれば、「意味」はあなた(自分)が作っているわけです。
また、ここが極めて重要なことですが、意味づけることによって、自分の人生(というより自分自身の世界)が創造されるということであり、宇宙と世界に「意味を持つこと」は、まさしく意味があることと解釈できるのです。
それから、結局個としての「自分」も、全体としてのまとまったひとつの存在の一部、表現と言えますから、根源・一なる存在においては「意味を持たない」とも言えますし、全体の中から生み出された個別表現としては「意味を持つ」ことになります。
ということは、意味はないようで意味はあるとも言え、また逆に意味はあるようで意味はないと述べることもできます。
これではわけがわからくなりますが(^_^;)、それが「宇宙」だと私は思っています。
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