上昇と下降 昇天と堕天
先日、少しだけフェイスブックで書いていた(というよりつぶやいていた)、「運命の輪」のについての、ある見方を書いてみたいと思います。
ところで、「運命の輪」というのは、タロットの大アルカナ22枚の中でも不思議な部類のカードです。人間ではなく動物のようなものが輪に乗って回っているという絵柄で、ちょっとつかみどころがない感じもあります。
余談ですが、先日NHKの大河ドラマを見ていましたら、語りの人が「運命の輪を回した」というような表現を述べてました。思わず、「タロットかい!」とツッコミを入れてしまいましたが・・(笑) それほど普遍的に、「運命」というものを表すたとえなのかもしれません。
さて、今日は「運命の輪」のカードがテーマですが、「運」「運命」のことがテーマではありません。主に、輪の中にいる二匹の動物に象徴させられることについてとなります。
(あらかじめお断りしておきますが、何度もこのブログで書いているように、ここでいう「タロット」とはマルセイユタロットの絵柄のことですから、そのつもりでお読みください。カード種によっては絵柄が異なる場合が多々あります。それから、ここで書いているカードの考察は、カードの意味として普遍的・一般的なことではなく、私個人がカードから得た示唆がほとんどです。ですからタロットカードの意味の学習で見るのではなく、特別な見方・こういうとらえ方もあるのだと思って読んでください)
この二匹の動物は、一応便宜上、向かって右側の上を向いているのを「犬」とし、左側の下に向かっているのを「猿」とします。今回に限り、犬か猿かなど、動物の種類に関係はなく(本来はその意味があります)、方向性が重要です。
犬は上に行き、猿は下に向いています。これを私は上昇と下降の快楽と見ました。もっと言えば、昇天と堕天です。
すなわち、人の快楽の方向には浄化したり成長したり、精神的高みに登りたいという上昇方向へのあこがれ・望み(と実行)による快楽と、逆にどんどんと自分が落ちていく、深みにはまる、欲求にまみれてそれをむさぼるような、ふたつの快楽方向があるということです。
一般的には上昇・昇天のほうがいいように思われがちですが、私自身は結局のところ、これは同じ性質のもので、方向性が逆なだけではないかと思うことがあります。(ともに見方による裏返し構造になっている)
なぜならば、簡単にいえば、上昇・昇天の究極は「死」(肉体を捨て、あるいは超えて魂が上昇)をも意味するからです。
反対に、下降・堕天は一般的・キリスト教的には悪魔的なイメージがありますが、方向性としては「大地」や地上、地球を意味し、ある意味、生きている現実性、物質性を最大尊重する方向だと言えます。
つまり、上は天ですが死であり、下は地で生の欲求につながるのだということです。
ということは、むしろ下降・堕天のほうが生のエネルギーに満ち、実存の形が明確であり、生きるという意味ではポジティブだと考えられるのです。
もっとわかりやすいレベルでいえば、上昇・昇天は現実逃避で、下降・堕天は人間である現実に生きることと表現してもいいかもしれません。
と、あえて上昇をネガティブ、下降をポジティブに書いてみましたが、これは実は一時的なものです。
私たちは天に昇ること(上昇方向)が、さもいいような幻想を植え付けられているので、そのバランスを修復させるため、あえて書いたまでです。
もちろん下降にもネガティブはあります。それはやはり生・人間の欲求にあまりにも忠実になり、それにおぼれて自分を見失い、さきほどとは逆説的ですが、結局破壊、大地に還るための死に至ることもあるからです。
しかし人間は「落ちて(堕ちて)いる快楽」も快楽の種類として、登る・上昇の快楽の対極で、同じくらい気持ちよさを感じる生き物です。
たとえば、遊園地の遊具を想像してください。ジェットコースターはいったん上に上がってから急降下するスリルがあり、フリーフォールなどでは、完全に落ちる恐怖が快感に変わっている施設です。(フリーフォールも、一瞬浮かび上がることで快感を得ていることに注目)
エレベーターでも一気に上昇していく浮遊感・一瞬の無重力感の心地よさもあれば、逆に急激な下降による、気持ち悪いような妙な快感も覚える人もいらっしゃるでしょう。
ところで生は「性」とも結びつきますが、男女の和合において、昇天的(天に昇るような)快楽を味わう人もいれば、ひたすら谷底に落ちていくような、でもそれでいて極めて深く気持ちの良い状態というのを経験する人もいると思います。
それから人は、自分がもっと成長し、精神的に高次になろうと学び努力する過程で、自分の成長と幸せ感の充実に酔いますが、一方でお金やドラッグ、性、犯罪などで快楽を覚える人もいます。どちらも陶酔と言えば同じです。その素材やきっかけが違うだけです。
堕落の陶酔がそこまでひどくなくても、たとえばジャンクフードや揚げ物・ラーメンなど、体に悪いとわかっていても、たまに食べたくなったり、規則正しい生活とはまるで反対の、昼夜逆転とか、だらだらした生活と期間を送ったりして、それが楽しいこともあります。
自分が落ちている、悪いことしている、ダメであることの楽しさ、喜びというのが不思議に存在するのです。
これには、大きくは人間としての自由選択の幅の広さというものがあると考えられます。
平たくいえば、昇るも自由、落ちるも自由なのです。
堕落することは、簡単なようですが、実は難しいところもあります。そこには動物的のようでいて、人間としての自由意志が働いているからです。完全に堕落した生活は送りにくく、どこかで上昇反転のきっかけが起こります。堕落を選ぶというのも、ある意味弱いようで、別の強い意志と言えます。
成長を拒否するのでも、悪人になるのでも、快楽や欲求にまみれる生活を行うのでも、それは結局のところ、強制ではなく自分の意志と選択です。
堕落さえ選択の自由を与えられている、まさに「自由な」喜び、これがひとつにはあるだろうと想像できます。だから人間であり、また無限の創造性を持つ神の似姿の存在でもあるのです。
もうひとつは、堕落は先述したように、一方では大地や生・性の希求につながっており、一見自分を崩壊・破壊させるような「死」をイメージしながらも、その奥底には「生」への限りないあこがれ、賛歌と謳歌の気持ちが内在していると考えられます。
最終的には自分をとことん大地と融合させ、地球そのものとしてずっと安定してしまいたいという欲求も働いているのです。簡単にいえば母親の子宮回帰に近いです。
一方、上昇・昇天は肉体から逃れ、精神・霊的に高みに昇り、悟りというような方向性に向かいますが、それが現実(物質)世界とのしがらみで葛藤し過ぎると、前に述べたように「死」の願いに変わってしまうことにもなります。
しかしながら、肉体次元から抜け出る快感は、おそらくたとえようもないもので、これもまた早く味わいたい、そうなりたいという強い欲求を生み出すことになります。これも宇宙の子宮回帰と言えなくもなく、上昇・下降はつまるところ同じものだと考えられるわけです。
まとめますと、、味わえる・触れる・見られる・聞こえる・匂えるような五感的楽しさの海で泳ぎ、いつの間にか、「ああ自分は海そのものだ」と巨大な感覚を味わうのと、五感を超えた直感的・精神的・象徴的世界において、天や宇宙そのものになって、風のような希薄で軽やかな一体感を味わえるものとの、下降・上昇の快楽が、人間には自由に選択可能とされているということです。
どちらがよくて、どちらが悪いのかというのではありません。おそらくそのバランスや活用の力(パワー)の問題でしょう。
いずれにしても、どちらかに偏重し過ぎるのは、望ましくないようにも見えます。しかしながら、一方で極端に偏るのも、ひとつの解脱の道かもしれないのです。
「運命の輪」には、もう一匹の動物、仮にスフィンクスと言っておきますが、これがいます。この存在こそが、今まで述べてきたことを解決したり、その次元を超越するための大いなるヒントとなっています。
また「輪」が「回転するもの」であることも重要なポイントです。
皆さんも上昇と下降の快楽について、考えてみてください。
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