恋愛における受容性
マルセイユタロットの大アルカナ、「斎王」と「審判」はともに「2」という数を持ち(「審判」はひと桁化すると「2」)、受容性をひとつのテーマとします。(タロットは多面的な考察法があり、これはあくまでとらえ方のひとつです)
ところで、皆さんは恋をすると、その対象の人(こと)をどう思うようになりますか?
今恋愛状態にない人でも、昔(苦笑)の経験を思い出してください。またこれ(恋愛対象)は人ではなくても、好きなことだったり、物事であったりしてもよい場合もあります。
すると相手のことを愛おしいと感じていたり、受け入れたいと思っていたり、または反対に受け入れてほしい、愛してほしい、好きになってほしいというような思いを想像することができるでしょう。
結局のところ、そこには相互に受け入れ・受容というテーマが見えてきます。
つまり、恋愛は今まで個別(別々)であったそれぞれ(自分と他者)を、受け入れ融合していくことの思考と行動の機会を与えられているものだと述べることができます
エネルギー(関心のエネルギー)のベクトルが、突然、自分方向から他人方向へと逆転するわけです。
ところが、恋愛の場合は自分方向のベクトルも時に過剰になるのが面白く、また悲劇を生むところではあります。
いずれにしても、たとえ両想いになれなくても、相手を受け入れたい、自分を受け入れてほしいという「受容」の気持ちは、どちら向きせよ、恋愛で著しく生じるわけです。
しかながら、やはり恋愛で大切なのは、相手を受け入れられるかという方向性です。
もちろん、自分を受け入れてほしいということも、恋愛ならではの強い思いがあるのはわかります。それも人情というものです。
そして両想いになれば最高であるのも、感情的には間違いないことなのですが、恋愛という経験の価値という観点から見れば、その成就・成否に関係なく、「相手の受容」がポイントであり、課題・テーマだと考えられるのです。
ちょっと古い漫画(のちにアニメ化・実写映画化もされました)になりますが、高橋留美子の「めぞん一刻」という作品がありました。
この漫画は主人公の五代裕作が、彼の住むアパートの管理人で若い未亡人である音無響子に恋をして、最後に結ばれるというラブコメディです。
五代君が音無さんとの結婚が決まった時、音無さんの前夫(死別)の墓前で五代君が、「あなたもひっくるめて、響子さんをもらいます」と報告するシーンがあります。
なかなか感動的シーンなのですが、いわば、これが好きになった人の受容性というものをよく表しているように感じます。
どちらかいうと、母性のようでいて、実は父性であると言えるものです。
その人の生きてきた歴史、関わってきた人・モノ・シーン・経験・・・どれひとつ欠けても、今あなたが愛しているその人ではなくなるのです。
今対峙している相手が相手であるのには、その人が生きてきた全歴史があり、それを受容する覚悟があってこその本当の受け入れだとも言えます。
ただ人間ですから、いろいろと思いがあります。嫉妬や妬み、それも当然入るでしょう。ですから相手への全受容の覚悟をしなさいというのではないのです。
自分の中にあるネガティブな思い、人間くさい思いが起こること、それも当然だと認めつつ、それにどっぷり浸からず、少し視点をずらすのです。
「今、相手が相手自身であるのは、誰のお陰か?」と。
その人がその人であるのには、まずその人を生んでくれた両親のお陰がありますし、そのまた両親・・と連綿とした人のつながりが存在します。
さらにはその人が生まれた後の家族・友人知人関係、先生や講師・指導者、場所・環境・・・また極端にいえば、その人に危害を与えた人ですら、今のその人を形成した一員・要因と言えます。
あなたがその人を現在愛しているのは、そんなたくさんの人たちや物事があって、その人たる存在として創り上げてくれたからこそ、「今にいるその人」をあなたは好きになれ、愛することができているのです。
もし一人として、また一分として過ごしたシーンと時間が異なれば、あなたが愛しているその人でなくなっていた可能性もあるのです。
そうやって考えると、愛する人への受容というテーマが、少しは促進されるでしょう。
さらに一歩進めば、その人に出会っている自分さえも、その人の歴史の一部、形成要因の一員となっているのです。愛する人に貢献できることは、すばらしいではありませんか。
究極的には、実は自分がそのこと(相手も自分も)を創造していることに一瞬気がつくこともあるかもしれません。
片想いの人は、実はこの受容性を培う大きなチャンスでもあります。
相手に受け入れてもらえないのなら、せめて自分が相手を受け入れる大きな受容性をイメージしてみてください。
好きになった相手が存在してくれていること、その人があなたの前に現れるまで、いろいろな人がその人に関わり、あなたが好きになるような「その人」にしてくれたことに感謝しましょう。
それができただけでも、あなたは成功者であり、ある意味、下手な悟りを目指す修行者よりも、一瞬とはいえ、悟った人になっています。
マルセイユタロットでは、「恋人」「13」「審判」が7の数を基礎としてつながりを持ち、今回述べてきたことが描かれています。
「審判」(の境地・気づき)に至るには、恋愛をもっとも象徴する「恋人」(の体験)が必要であり、基盤になっていることが構造的にも理解できるのです。
ちなみに、「恋人」にも「審判」にも「天使」が描かれていることを付け加えておきます。
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