アニメ「猫の恩返し」を見て。
今日からジブリの新作が公開されるということで、テレビ系列でもジブリ作品がよく放映されています。
アニメ好きの私ではありますが、個人的にはジブリの作品、特に宮崎監督の作品は初期を除いて、あまり好きではありません。
理由はグノーシスの気づきを阻む要因が多いからです。ただ今日はそのことがテーマではないので書きません。また、ジブリでも少しリアリティを感じさせる作品は好きですし、好きではないものも違う視線で見ると、制作者の意図を超えてインスピレーションを得ることも可能です。
さて、昨日は「猫の恩返し」をテレビでやっていました。たまたま見ていたのですが、今の目線でこの作品を見ると、結構いろいろな気づきがありました。
この作品も作品そのものは私の好みではないですが、しかし前述のように見方を変えると極めて示唆に富む作品に変化するのです。
一番面白かったのは、主人公の女子高生がファンタジーの(猫の)世界に連れて行かれた時、「猫になってもいいかなぁ・・」と思う度に、自分が人間から猫化していくという演出です。
主人公を救い出す紳士な猫人形は、「自分を強く持て、自分の時間で生きろ」と主人公にアドバイスします。
このあたりが多分に心理的・スピリチュアル的表現になっているのです。
簡単にいえば、そして制作側からのメッセージとして見れば、このことから私たちに対して、「自分として生きること、誰かや周囲に流されず、自分をしっかり持って主体的に生きよう」ということでもあると思います。ファンタジーや空想世界を利用するのは、アニメ的表現の特徴ですし、お決まりと言ってもいいでしょう。
これは確かに大切なことです。
ただ、タロットをやっている私から見れば、それは現実の生活をまずしっかり生き抜くための基礎知識であって、いわば当たり前の第一段階だと見ます。
今回、私がこの映画で感じたのは、意識の揺らぎによる世界の変化ということです。これは第二段階の生き方と言えるでしょうか。また自分意識の選択というテーマもあります。
人はともすると、自分を生きるのではなく、誰かの期待する人間像や社会から植え付けられるモデルで生きようとします。
実はほとんどの人は無意識のうちに、そうして生きていると言えましょう。
つまり、最初のこの映画のテーマのように、多くの人はしっかり自分とその時間で生きておらず、現実でいながら、ほかの人の世界観というファンタジーで生かされているようなものなのです。
ただここで、では「自分」とは何であり、誰であるのか? 自分を生きるとはどういうことなのかと突き詰めて行くと、おそらく誰しもあやふやなものになってくると思います。
なぜならば、人(個人・個性)は、対比、対人、対物で決まるからです。結局、自分以外のことによって、自分が規定される(違いが決まる)ので、外のモノと比べて「自分」だと自らが認識するわけです。
ということは、自分というものは「削ぎ落とされた他人との違い」と極論することもできるかもしれません。それでもそれは外見や目に見える範囲でのことです。
内側(心)まで人と違うのかどうかはわかりません。
自分の心や思考と思っていても、やはり人の思想や情報に影響され、自分で形成した信念によって自分というものを幻想的に創り上げているだけかもしれないのです。
ということは、自分というものは、とどのつまり、あやふやな存在だということで、「自分探し」の困難さ、「自分を生きる」という本当の意味での難しさはここにあると考えられます。
そこで、これを反転させてみます。
結局、自分というものがわからないものであるならば、逆に自分を自由に変えていくこともできるのだと。そういう存在が人間だと考えることもできるわけです。つまりは自分でモデルや形式を選べるのです。
「猫の恩返し」に戻りますが、人間である主人公が猫になりたければ猫になることもできますし(象徴なので現実の猫になるというわけではもちろんありません)、もっと言えば別の動物や人間にもなることも可能なわけです。
さらには時空ということもポイントで、時間と空間が特に現実を認識させるうえで重要な役割を持ち、場所の質と時間のリズムによって意識が変わり、人(人間性)すらチェンジしていくことにもなるのです。
(マルセイユタロットの「運命の輪」)
先に「意識の揺らぎ」という表現を文章中でしましたが、意識を変えてほかの人間に切り替える(自分が変容する、自分を着せ替える)には、意識を揺るがせる工夫がいるわけです。
それは実はファンタジーや空想、時には妄想にさえヒントがあります。
通常、人の意識が揺らぐのは、とてもインパクトのあることが起きる(つらいこと、苦しいこと、反対にものずこい喜びなど)か、自分の個というものをなくすような全体性の体験(没我)をすることで生じます。
自分と思っているものを喪失することで、別の意識(のパターン)を自分に移し替えることができると言ってもいいでしょう。
マルセイユタロットの「13」の秘密もここに隠されています。
ただ、自分を変えられる・選べると言っても、奴隷として洗脳させられている場合(無意識のあうちに、ある役割をさせられているの)と、主体的に自分でわかって選択している場合との違いが、死活の意味で大きく、それがグノーシス(自分の神性の認識)につながるものと考えています。
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