嫌いなもの・人への対処法
人間であれば、好き嫌いという感情が出るのは当たり前です。
好きなことに対しては、誰しも積極的になったり、好意的に見られたりして問題はありませんが、嫌いなことに対して、どう向き合うか、どのように対応すればよいのかで、人は悩みます。
従って、好き嫌いの問題は、嫌いなこと(人)への対処であると言い換えてもよいかもしれません。
ただ「好きなことが見つからない」とかと言った悩みもあるので、「好き」の部分での問題がないわけではありませんが、「嫌い」な方がウェートは大きいでしょう。
さて、この「嫌い」ついてどするかですが、結局は「嫌い」なものを受け入れるか、「嫌い」を好きに変えるか、「嫌い」は嫌いで放置しておくかの対応があります。
あと、もうひとつは、その中間とも言える方法で、「嫌い」の一部を認め、そのほかは「嫌い」にしておくというやり方もあります。
実は「嫌い」なものへの対処方法というだけではなく、物事の選択において、この4つの方法は基本ですので覚えておくとよいでしょう。マルセイユタロットでは「恋人」カードでこのことは表されています。(別の裏カードも考慮すると、さらに確実です)
それで4つの方法のうち、「嫌い」なものを「好き」にするというのは、180度好みを変えるわけですから、労力としては一番大変です。
けれども、それができると反転したエネルギーによって、強烈な「好き」に変わる可能性もあります。
最初はイメージで嫌いだったけれど、やってみたら意外に面白く好きになったという趣味や、最初は嫌いな人でも何かがきっかけで好きになり、パートナー・親友として続いているというようなケースですね。
とはいえ、やはり普通は、嫌いなものを好きに変えるのはかなりの努力がいるでしょう。
これと真反対の、「嫌いを放置」するの方法ですが、これは確かに楽ではありますが、人間的成長が望めない対応です。
せっかく違う価値観や個性を見せられているのに無視してしまうのは、自分の可能性拡大の機会を失っていることにもなります。
しかしながら、本当に嫌いなもの、生理的・精神的にダメージが来るくらい嫌いなものを無理して関わろうとするのも、人生の時間とエネルギーを浪費してしまうことにもなりかねませんので、これも程度の問題だと言えます。
そうなると、現実的でいて自分の成長も考慮する方法となると、「嫌い」を受け入れるか、「一部」を認めるということになるでしょう。
中でも、「自分はこのようなものが嫌いなのだ」と認め、「受け入れる」ことは大切です。その際、嫌っている自分をジャッジしないことがポイントで、ジャッジし過ぎるとまさに自分を嫌う「自己嫌悪」に陥ります。
ただ、よく心理やスピリチュアルで言われるような、「人の嫌いな部分は自分にもそれがあることを認める」「人は自分の鏡」という考え方を鵜呑みにしてしまうのは、少し危険があるので注意が必要です。
個人的にはこれには一部の真理が含まれていて、確かに自分を成長・浄化せさるための有益な手段と見方だとは思いますが、単純にそのまま他人を鏡作用として当てはめると、前述したようにジャッジが入り、自己にネガティブさばかりを見つけてしまう恐れがあるのです。
つまり、「私って、この人・あの人・たくさんの人の悪い部分を持っているダメでひどい人間なんだ」と思ってしまうわけです。
これでは自己尊重どころか、相手のネガティブさを自分に拡大投影して植え付けているようなものです。何事もバランスが大事で、相手のネガティブが自分にもあると思うためには、自己尊重(尊大ではありません)がそれと同等に必要です。
たとえば人は自分の鏡だとするのなら、、反対に、いいことがあった時、ポジティブな人・親切な人と接した時、成功して輝かしい人と出会った時・・・なども、「自分にそれがある」「自分もそうなんだ」と積極的に見ることができるはずです。なぜか、多くの人は人のポジティブな部分は自分には見ようとしないのですね。(笑)
ということで、ここでひとつ提案と言いますか、マルセイユタロットから得られた「ある便利な方法」をお伝えしたいと思います。
それは嫌いなものや人を個別化して、さらに抽象化するという方法です。
人間で考えてみればわかりやすいのですが、ある人が嫌いだと思ってもその人をトータルとして嫌いと見たり、表れている嫌いな部分そのものを真に受けたりするのでないということが鍵です。
トータルで見ないということはよく言われるので、詳しい説明はカットします。
簡単に言えば「人格」と「行為」は別として見たり、嫌いな人でもその人全部が悪いわけではないと考えたりするやり方で、まあ、比較的当たり前の「焦点ずらし」による感情中和法です。
もうひとつの方法は、例えばその人が貧乏ゆすりをしているのが嫌いだと思えば、貧乏ゆすりそのものは確かにあなたにとっては嫌でしょうが、それを「貧乏ゆすり」という現象・表現として人から切り離して個別に取り上げ、さらに抽象化するという作業です。
「抽象化する」とは、もっと大きな括りで見てみるということです。
そうすると「貧乏ゆすり」とは、結局「いらいらしている時の癖である」となり、もっと単純化すると、「単にコミュニケーションの際の癖がある」とこの場合には考えらます。
それを今度は「自分にもある」として考えます。そう、もしかすると、あなたも知らず知らず人前でしゃべったりする時、貧乏ゆすりではなくても、口癖や仕草があるのかもしれません。
それが相手にとって不快かどうかはまた別で、ひょっとすると他人はほとんど気にも止めないもので、ただ「癖がある」という程度のものなのかもしれませんが、「自分で注意してみるのもありかな?」と思うことはできます。たぶんそのほうが、もっと人前でよいコミュニケーションができるのでしょう。
というように、相手の嫌いな部分をそのまま自分にあると受けるのではなく、普遍化や抽象化することで拡大し、それが自分のその時の個別メッセージである(反面教師的な意味とか、ポジティブ・ネガティブ意味は様々です)と考えると、気が楽な上に気付きももたらされるという対応になりうるのです。
何事も極端(限定・固定的)に思いすぎるのはバランスを欠くので、注意が必要です。
あとシンクロニシティとして、何度も同じ部分を見せられるかどうかという点も、気にしなくてはならない「嫌い」な部分か、放置していてもいい「嫌い」な部分かの判断のもとになります。
コメントを残す