考えない方向と考える方向
人間は徹底的に考えるか、逆に難しく考えずに思いっきりシンプルにしてみるという、ふたつの真逆ともいえる方向性で楽になることができます。
どちらを選択するかはケースバイケースですが、最近の傾向としては、思考を排除する方向性を推奨する傾向が目立つ気がします。
現代人が情報の洪水のような社会にいるので、ただ普通に暮らしているだけでもいろいろと考えさせられる状況ですから、思考過多に陥る私たちにとっては、思考を少なくしていくというのはうなづけるところがあります。
まさにマイナスの創造といってもいいのですが、不安が不安を呼ぶ形で、あれこれと私たちはいつも考えすぎてしまい、自分で自分をかえって苦しめていることは多いものです。
これは私が考えすぎて虚無的になっていた時に、ある人から実際にアドバイスされことですが、「人間も動物」だとレベルを下げて抽象化してしまえば、動物たちが示す「ただ生きようとする努力・本能」が人間にも見るべき視点として出てきます。
人間は変に、「こんな状態で生きていても仕方ない・・」とか、「何のために私は生きるのだろうか?」など悩みがちですが、人間以外の生き物は、どんな傷つこうが、どんな状況に陥ろうが、生き延びようと本能的に努力します。
人間は下手に自分の立場や使命とか生き甲斐とか大きな意味を考えすぎて、かえってそれで悩み、生きることそのものの力を失うこともあるように思います。
人も結局は生き物だと見れば、ただ生きること、生かされていることにシンプルにたどり着き、そこから生きるというパワーと活力が見い出されるようになるかもしれません。
これが次元をあえて下げて、根源(たとえれば「大地」)まで自分を同化することで、問題を解消する方向性です。
一方逆に、考えに考え抜く方向性もありです。
これは古代ギリシアで哲学として、「物事の本質は何か?」などと、徹底的にソフィスト(哲学者・知を愛する者)たちが議論しあったことに似ています。
考えるとなると人の意見も聞くことになり、時には他人からの批判もあって、「自分が考え抜く」ということは容易なことではありませんが、それでも人の主張や文献なども参考にしながら、自分なりに本当に考えに考え抜いた結果、あるところから突然、「答え」のようなひらめきで何かを悟ることができるように思います。
多くの人は「思考」はエゴだとか、邪魔だとか言うのですが、私には逆に純粋なものに行き着くための羽・乗り物だと「思考」のことを思っています。
思考に操られるのではなく、思考を乗りこなすこと、マルセイユタロットの「戦車」のカードや、「鷲」の象徴を見ていると伝わってきます。
特に重要なのが、思考による「段階(階梯)」です。
考えて得たと思った答えが、また別の否定だったり、規定外のことだったりで、出した結論では納得できない状態、説明不可の段階がやってきます。
そこからさらに思考のレベルを上げて、新しい答えを出す必要があります。その繰り返しにより、私たちは気付けば最高度の「答え」と、その奥にある何か、物事の本質、プラトンの言うイデアを観照することが可能になるのです。
ここまで来れば、そのイデアに象徴される全ては、美しいものとして輝き、人生そのものも美と善として真実味(別の意味でのリアリティ・充実感)を帯びます。簡単にいえば、「生きていることがすばらしい!」となるわけです。
こうして考え続けていく方向性も、自分を楽にしたり、解放させたりすることになるのです。
思考を排除したりシンプルにしたりする方向性と、徹底的に思考をつきつめていくという方向性のふたつをうまく生活の場面の中で取捨選択しながら、私たちは自分自身を生きやすい存在とさせ、奴隷ではなく主体的に生きる「人間」として尊厳を取り戻していくことができます。
それは世界や宇宙(神)を讃えて、自己の人生をワンダフルに過ごして行く方法でもあるのです。
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