人生の主人公になる。
今日はマルセイユタロットを通じて得られた考察のひとつを披露いたします。
一人一人は自分の人生を生きていますが、世の中にはたくさんの人がいて、多彩な環境とシチュエーションが用意されているように、たった一人で何もない空白の世界を生きることは、誰もできません。
逆に言えば、どうしたって、人は人と関わり、様々な体験をするようにできていると言えます。
人生とは何か? 生きるとは何か?と、私もよく考えるテーマですが、つまるところ、シンプルにこの世界を見れば、上記のことが答えとして導かれます。
すなわち、もう一度言いますが、様々な体験(経験)をするために生きているということです。
もちろんこれはひとつの見方であり、生きるというテーマの答えは、各個人それぞれが持っていると言ってもよく、数学の答えのように決まるものではありませんが。
さて、そうした中で、私たちは自分の人生では自分が主人公であると言えます。
ここが大事なことですが、意外にも、自分が主人公なのに、意識的には他人や運などの外のもの、すなわち映画の舞台設定のようなものに自分を明け渡していることがあります。
簡単に言えば、主役なのに主役の自覚がなく、端役や舞台ばかり気にしてしまっている状態です。
これでは自分の人生が人任せ、舞台任せで動いてしまうのも仕方ありません。
ですから、まずは自分の人生は自分が主役であり、主人公なのだということを意識することが大切です。これが過去や未来に気持ちが行きすぎず、今・現在に自分を生きるという根本にもなってきます。
その上で、自分が関わる色々な人たちが登場してくるのをまた意識します。
この人たちはあなたから見れば、重要な相手役だったり、単なる通りすがりの通行人だったりしますが、たとえモブシーンや背景の一人であったとしても、その人にスポットを当てれば、当然その人自身が主人公の人生となり、あなたが端役になったり、時には重要な役割になることもありえます。
言わば一人一人が主人公の劇を、同時進行で同じ舞台を利用して、すべてが関係している複層劇を皆が演じている状態なのです。これは極めて高度なシナリオが要求されます。これができるのは、まさしく神業としか言いようがないものです。
あなたが何気なく通勤している途中のワンシーンを切り取っても、何かお菓子でも買おうとコンビニ入ろうとしている人もいれば、携帯電話で取引先に重要な電話をしている人もいます。
朝帰りのカップルがうつろながらも幸せそうに歩いているかもしれませんし、老後を楽しんでいるおじいさんが犬と一緒に散歩しているかもしれません。子供たちがゲームの話をしながら、にぎやかに通学をしている状況にも出会うでしょう。
それぞれの人はそれぞの人生において主役であるので、周囲の人はみんな舞台設定の登場人物になります。でも、おそらく一人として欠けてしまえば、あなたのその日の通勤におけるワンシーンという「絵」にならないのです。
ここで映画のように、一人一人セリフと行動が大まかに決まっているとして、もしいい加減に演じる人が何人かいたとしましょう。
そうすると、せっかくのあなたから見た通勤シーンという情景が、たちまちリアルなものでなくなり、それなりに朝の風景として緊張感や調和のあった感覚が、ものすごく違和感のあるものに見えてくるかもしれないのです。
どんな役であれ、真剣に演じている人が多ければ多いほど、そのシーンは迫力を増します。いわば、映画や劇が成功に近づくわけです。
ということで、私たち一人一人が(あなた一人でも)、もし自覚をもって人生を真剣に生きるならば、自分の人生劇場だけではなく、人の人生劇場の価値(質)も上がるのです。
ただ真剣に生きるというのは、固くまじめに生きるということではありません。人生を全うするというか、エンジョイする、精一杯味わうという感覚に近いものです。
自分が人にとってどんな役になるのかはこの世界ではわかりませんが、それでも漫然に生きるのではなく、「私の人生を思いっきり生きよう」と思うだけで、神なるシナリオライター・映画監督は瞬時にアドリブや変更を利かせながら、あなたとあなたに関わる人たちに奇跡を起こしたり、人生の充実と幸せを感じさせるシーンを多く配置していくことになるでしょう。
まさに、自分を力強く生きることで、それぞれの人の人生の質向上にも貢献するという仕組みです。
そして、スピリチュアル的には、他人も全部自分の創造したものであり、すべてを総合的に設計演出しているシナリオライターや映画監督、プロデューサーに当たるのは、ほかならぬ自分自身なのです。
このようなことを考察していくと、まさに毎日が奇跡(奇蹟ということのほうが近いです)ということになるのです。
コメントを残す