他人は自分の鏡のようでいて違うこともある。

スピリチュアルや心理の世界ではよく言われる「他人は自分の(心の)鏡

このブログでも何度か言及していますが、この考え方をどんな場面でも適用してしまうと、逆に自分を縛ってしまうことになります。

まあ、「考え方」というものは、おしなべてそういうことになりがちです。

すなわち、原理主義というか、「絶対」という信じ込み方をすれば、たとえ心を解放する技術だと伝えられても、逆の作用を及ぼすこともあるということです。

そして、何でもそうですが、「逆もまた真なり」というパターンや、「まったく反対のことを想像してみる」のも、実は法則を適用したり、活用したりする上でも有効です。

さて「他人は自分の鏡」ということですが、この場合、相手に自分の似たところを探す、あるいは気付かせてもらうことになります。

ということは、注視するのは、いつも共通点ということになってしまいます。

しかし、そうは言っても他人は他人ですから、違う点があるのも当たり前です。

従って、相手に自分と同じところがある、あるいは自分の部分で相手に表れているものがあると思うと同時に、やはり自分と相手では違うこともあると認識するのも大切です。

共通点ももちろん意味がありますが、相違点もしかりなのです。

たとえば極端なことを言えば、男女のカップルで共通点を見い出すこともありますが、そもそもが女性・男性と性が異なります。

もちろんこのような明かな違いだけではなく、微妙な異なり方もあるはずです。「ここまではよく似ているけれど、これは何か彼(彼女)とは違うよ」といった感じで。

そこがあなたの個性であり、実は長所人生における個性表現(仕事・役割・趣味の傾向など)となりうる可能性があるのです。

ですから、゛他人のネガティブな好意や感情を見て、「ああ、私にもこういうところはあるのだな」と気付くことも結構なのですが、逆に「いや、待てよ、そういうところもあるけれども、こんなところでこんな表現はしないよな」と思い返すこともできるのです。

鏡ではあっても、微妙な揺らぎのある鏡であり、そっくりそのまま映し(写し)出すということではありません。

他人を見て、自分自身が成長していることや発展していることに気付く場合だってあります。

それは相手と似ている部分があるからこそ比べやすく、その上でやはり違いもあって、その違いが自分の個性・成長・変容ポイントとして再浮上してくるのです。

もちろん違いが逆に、自分のマイナス点や低下している部分ということもあり得ます。

マルセイユタロットの「月」や「太陽」にはそうしたことも描かれています。

まったく相手や他人・周囲の環境を切り離して見てしまうより、やはり自分の投影装置や鏡として自己認識・自己洞察のプロセスとして考える方法は有用でしょう。

しかし同時に、そっくりそのまま文字通り「鏡」として見るのではなく、つぶさに観察し、相手との違和感や異質点を発見するのも、自分にとって建設的な見方となります。

特に同質のようでいて異質、異質のようでよく見れば同質という部分まで踏み込めば、分離しながらも統合、統合しながらも分離という宇宙的エネルギー表現の本質に行き着くこともあるかもしれません。

世の中は矛盾のオンパレードなのですが、そこには実は矛盾がないという禅問答的(笑)世界なのです。

マルセイユタロットを知ったり、星を知ったり、数を知ったりすること(つまり古代象徴学を学ぶこと)で、この矛盾的異質的かつ統合的同質的世界を理解するのに役立ちます。

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