国の誇り
私は特段右翼とか国粋主義者ではありませんが、やはり日本に生まれ日本人であることに誇りを持ちたいと思っています。
戦後は途中から、ある意味、極端な左方向に教育が傾き(あくまで私個人の印象です)、地球民意識と言いますか、国を超えた見方が広がったのはよいとしても、逆に自分の所属する地域や国という意識が希薄になりがちの面もありました。
とはいえ、大きな戦争を経験したあとですから、左方向に舵が切られるのもバランス的には当然だったと思います。もちろんそこにはアメリカに占領された国という事情、共産主義の当時の台頭というものなど、もろもろの政治的事情もあるでしょうが。
別に、ここで私は右や左の議論をしようというのではありません。
今回の主題は、「自国の誇り」というものが個々人のセルフイメージにもつながっているという「個人と国の連関」についてなのです。
一応、「国」をテーマにしていますが、これは「地域」とか「町」とか、逆にもっと範囲を広げて「アジア」とか「地球」「太陽系」「銀河系」となっても同じです。
しかしながら、まずは小さくもなく広すぎもせずの、「国」レベルくらいから考えたほうが適当ではないかと思って、取り上げています。
自分の国がダメな国である、ひどい国である、こんな国など滅んでしまったほうがよい・・などとネガティブに、貶めるかのように思っていると、それは結局自分自身に還ってきます。
自分の国と自分とが完全に切り離され、本当に他国や他人事のように思えるのならば、影響はほぼありませんが、「自国が嫌い」という感情は、自分と自分の住んでいる、あるいは国籍のある国との関係を強く意識していることを物語っています。
「気になる」ということは、文字通り「気にしている」わけです。そして気にしていると言うことは、自分とその対象物が見えない感情の糸のようなもので結ばれている無意識の感覚があるのです。
つまるところ、気になっている自分の国自体は、まさに自分自身の鏡・分身ともなってしまうのです。
自分の国がどうしようもなくダメな国だと思っていると、それは自分のセルフーイメージにも関係し、回り回って自分を貶めていくことになります。
もし小さい頃から、自国への自虐的教育と思想を植え付けられたら、究極のところ、自分さえも否定する存在となってしまい、それが集団化して大きなネガティブエネルギーとなり、まさに自分も国も滅んでしまうおそれがあります。少なくとも、「自分はよくても国は嫌だ」という葛藤を抱えなくてはいけなくなります。
国が滅んでも、国というものはもともと勝手に地球の中で線引きされたフィールドであり、なくなっても自分や本質(地球)がなくなるわけではないと思うかもしれません。
ところがそれが違うのです。
先述したように、国=自分というつながりがあり、国がなくなれば自分もなくなり、肉体的には存在していても、居場所のない放浪者となります。特に精神的拠り所がなく、不安定な人間となるおそれが大です。
実は物質と精神は密接なつながりがあり、物質的にもし何かがなくなれば、自分の所属する精神の世界での、あるフィールドも消失することになり、心の安まるところがなくなります。その逆もまた真なりです。
人は物質(肉体、目に見える世界)だけで生きているわけではなく、精神や霊的な世界観というものがあります。物心両面で安定してこそ、人として充実すると言えるでしょう。
ですからもし国境をなくしたければ、精神的に国境がなくても安定する境地を獲得する必要が多くの人の中で必要とされます。
すなわち、それは次元やレベルの上昇と言えましょう。
日本人だけがそれを納得できも、世界的に見ればまだまだ難しいかもしれません。どれだけの人が国境を無くした世界観を真に精神的に共有でき、安心できるかにかかっていると言えます。
それを無理矢理やろうとしても、そのまま「無理」が生じます。それならば、まだ段階として国の枠組みで安定している境地のもとで、しっかりと基礎を作った上で、個々人のレベルの向上を目指すほうが安全です。
普通の人は、「住む家もない状態で安心しろ」とか、「不安定でいながら上を目指せ」と言われても難しいからです。
あと、これはまた別の機会で詳しく書きたいと思いますが、自国に誇りを持つと言っても、自分のコンプレックスを隠したり、反動したりすることから過剰に国に持ち上げ、国に自分を仮託して、異常に興奮を得るというのとはまったく違うので注意が必要です。
この構造は国レベルだけではなく、国内の地域レベルにも潜在しているやっかいなものです。特定のスポーツチーム、国の代表チームを応援する心理にさえなっていることもあります。健全な誇りではないのです。
さて、今日書いたことは、一見タロットとは無関係に思えるでしょうが、やはりマルセイユタロットと大きく関連していることです。
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