世界が自分を作っている。

精神世界やスピリチュアルなことに関心のある人の中でよく語られるのが、「自分が世界を作っている」という説です。

最近では量子論の一部を引用して説明されることもあります。

量子論とのリンク性が正しいかどうかは別として、「自分が世界を作っているということは、比較的精神世界系ではノーマルに信じられつつあるように思います。

私自身もマルセイユタロットを扱ってきますと、そのことは感じられることがあります。

ただ、ここに来て、逆の見方も面白いだろう思ってきました。

すなわち、「世界が自分を作っている」という考えです。

これにはまず、表面的というか相対性による考え方ができます。

それは、自分という存在が、例えば妻であるならば夫という存在がいるからであり、親であるらば子供がいるからで、優しい人と思うのなら、優しいことを表現する相手や環境があるからだと見る方法です。

つまり、自分という存在は、対象者や対象物があってこそ決まってくるのであって、それは突き詰めれば外側の世界によって自分が何者であるか決定されるということになります。

厳密に言えば、決まってくるのは「存在」というより「役割・パーソナリティ」と言ったほうがいいかもしれません。ということは、一面においては、自分の役割こそが「自分」であると見ることもできます。

では役割ではない本質的な自分とは何か?となれば、これは難しい話です。もしかすると何もないのっぺらぼうのような存在かもしれません。

もう少しこの相対的存在論をスピリチュアル的に見ていきますと、次のように思うことができます。

「私たち一人一人は、宇宙から必要とされるエネルギー・表現として生み出されている

わかりやすく言いますと、宇宙(神と表してもよいです)に意志があると見て(あるい意志というより必要性と言い換えてもよいです)、その意志が宇宙を構成・完成・拡大させるために、色々なもの(個別)を出すのであり、それが私たち一人一人の人間でもあるということです。

宇宙を巨大な舞台とするならば、相対的に必要な人間が次々と生み出されていきますし(主役がいれば相手役も必要というように)、また木や石みたいな環境舞台設定、ほかにも大道具・小道具など、やはりどんどんセッティング(創造)される必要があるでしょう。

さらには物語の進行と種類によって、役者の性格や役柄も変わるように、これまた必要に応じて私たちは変化して行きます。

そうなれば、私たちはしょせん宇宙のコマのひとつなのかと嘆かれる方もいるかしもれませんが、上記の考えに立てば、確かにコマと言えばコマなのでしょう。

しかし、ここがまた矛盾しているようで統合させてみると興味深いのですが、振り出しに戻って、「自分が世界を作っている」という考えも受け入れると、自分=舞台監督、神、創造者ということにもなり、まさに自作自演でコマにも監督にもなっているという印象に変化します。

いずれにしましても、「自分が世界を作っている」という考えと、反対に「世界によって自分が作られている(または規定されている)」という視点も同時に持つと、一度はわけがわからなくなって混乱を来しますが、やがて巧妙に作られているようなこの現実世界が、幻のごとく揺らぎのように認識できる瞬間が出現します。

前にも言いましたが、漫画アニメの「ナルト」の多重影分身の術(笑)が、このことを考察するのに面白いヒントを与えてくれます。

まじめにやりすぎるとも、気がおかしくなる危険性もありますので、保険としてマルセイユタロット安全装置のように持っておくとよいでしょう。もちろん、マルセイユタロットの構造と象徴性を理解していなくては(学んでいなければ)装置にはなりえませんが。

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