カードの組み合わせで出る意味

タロットには、そのカードに付随する「数」の並びに、いろいろな秘密が隠されています。

マルセイユタロットの場合は、特に大アルカナの意味において、それは極めて重要な意味を持ちます。

実は「数」の並びにおいても「全体性」と「個別性」があり、例えば大アルカナカード全体として見ると意味のわかってくる数の並びと、隣り合う同士や、ある数になる組み合わせによって出てくる意味などがあります。

後者の場合は、「個別性」とリンクしやすく、タロットを扱っているその人の個人的な意味も含まれます。

何が言いたいのかと言えば、マルセイユタロットの「数」の並びはデタラメではありませんよ、ということと、数の並びの意味でも、皆に共通している部分と個人個人で出てくる意味がありますよ、ということです。

さて、そうしたことで、ひとつご紹介すれば、マルセイユタロットで5番と6番に当たる「法皇」と「恋人」というカードがあります。

二枚を数の順で並べてみると「法皇」は「恋人」カードを見ているかのように思えてきます。

「法皇」や「恋人」には、それぞれたくさんの意味が出てきますが、ここで二つをあえて組み合わせてみますと、『「法皇」が「恋人」を見ている』『「法皇」が「恋人」を語る』というような文章的な意味合いをもって読むことができます。

これはあくまで象徴なので、実際にローマの法王さんが彼の恋や恋人を語っているわけでは当然ありません。(笑)

しかし、それを次第に抽象化していくと、面白くなってきます。

本当はマルセイユタロットの「法皇」は「ローマカトリックの教皇」ではありませんが(あくまで私の解釈ですが)、仮に教皇だとしても、先程の「恋人」カードと関連させると、「教皇の愛するもの」「教皇の恋するもの」と読むこともできます。

教皇の愛するものであり、説いているものですから、それはやはり「イエスの愛」だと表現できるのではないでしょうか。

では「イエスの愛」とは何かということをもっと拡大解釈すれば、プロテスタントやほかのキリスト教・イエスを信じる教えの中にも、それは表わされていると言えます。

カトリックの解釈とは異なるかもしれませんが、普遍的には聖書やイエスの言葉から、人類が共通して感じる「愛」の何かがあるはずです。

もしかすると、「法皇」と「恋人」の二枚は、それを示唆しているのかもしれないということです。

もっと抽象化しましょう。

「法皇」はローマ法王でもなく、またはおじいさん(笑)や宗教者でもないとして、注目するのは、その「語っている」という動作の本質だとします。

そして「恋人」も同様に、恋愛や男女関係ではなく、恋すること、愛すること、好きなことが本質と見ることもできます。(あくまでひとつの解釈です)

では、「法皇」の本質と「恋人」の本質を掛け合わせると、「好きなこと、恋することは人に語ることができる」と言えますし、「人に(多く)語っていること(もの)こそが、あなたの好きなこと、恋していること、愛していることである」と見ることもできます。

自分の好きなことがわからないという人は少なくありません。それはあまりに具体化しようとし過ぎているということも一因です。

もっと大きなくくりや象徴で見ると、逆にわかってくることもあります。

何のことはない、普段あなたが人に対して一番多く語ったり、話したりしていることが好きなことである可能性もあるのです。(他人ではなく、自分に対して独り言や、心の中でつぶやいていることもそうかもしれません)

夢を語っているのなら、その夢自体ではなく、夢を考えること、理想を目指すことが好きなことなのかもしれませんし、現状は好き(な状態)ではないのかもしれません。

外国のことを語っているのなら、外国好きというのはあるかもしれませんが、もっと本質的に、常識外や未知なるものを探究するのが好きなのかもしれません。あるいは知らない人とコミュニケーションしたり仲介したりすることで、喜びを感じるのかもしれません。

こうして、自分がよく話し、語ることを見ることで、自分が本質的に好きなことがわかる場合もあります。

これもタロットの絵柄から象徴化させて、他人や自己を洞察する方法のひとつです。

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